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読み比べ、の楽しさはさておき・・・。

このところ、海外文学、とくに児童文学の「新訳」が出ている。
シリーズの途中から訳者が変わる、ではなく、新訳。

『長くつしたのピッピ』のシリーズもそう。
出版社を変えて『ナルニア国物語』も新訳が出た。

欧米系の作品に特にその傾向があるのは、非英語圏の翻訳作品の売り上げとの関係かしら?

時々耳にするとか目にするのが「今の子どもには(日頃使わないので)読みにくい日本語で訳されている」と。
確かに、大人になっても繰り返し手に取るのは、子供の爲の日本語ではなく、本を読む人のための日本語で書かれている本。
逆に言えば、今の子どもに人気のあるような創作児童文学で用いられるような日本語に慣れていると、昭和の翻訳文学はむつかしいことになるのかも。

どのくらい、今の子どもに受け入れられる日本語になっているのか、新訳も読んでみたくなる。

昨日、福音館書店からメールニュースが届いた。そこには『バレエシューズ』の完訳版の出版案内が出ていました。
はて、『バレエシューズ』って最近、中村妙子さんが訳し直した「新訳」で出なかったっけ?同名で違う作家のもの?いや、あらすじは同じようだし・・・。
とググったら、教文館出版部で昨年3月に、そして福音館書店からは今年、同じ本を違う訳者で出していることがわかったのでした。
中村妙子さん訳は挿し絵がイギリス版のもの、福音館の朽木祥さん訳は完訳のもの。

中村さんの出版が紹介されたとき「いつか図書館で借りよう」と思っていたままだったことを思い出した。
こうなると、朽木さんのも一緒に借りて、中村さんがカットした部分はどこだったのか、と考えながら読むことになるのかなあ・・・。

中村さんの安定した日本語。年齢からすると、最後の翻訳かもしれない、と思う。彼女のような日本語を使って小説を訳す人はどんどん減っているので、とても楽しみ。
朽木さんの日本語は初めて。翻訳よりは創作のほうが多いかたみたい。しかし、イギリスでの生活の経験がそうで、それならではの翻訳なのだろうという期待もある。

どっちを先に読むべきだろう・・・。







by eastwind-335 | 2019-02-14 08:39 | Books | Trackback | Comments(0)

帰国までの道のり

それほど厚くない文庫本なのに、時間をかけて読んだのが、プリーモ・レーヴィの『休戦』。
アウシュビッツを体験し、耐え、生き残ったイタリア人作家プリーモ・レーヴィの9か月にわたる帰郷の個人的体験記。
岩波文庫の表紙には「旅の記録」という言葉も見られるように、彼の回想録になっている。

プリーモ・レーヴィの本は朝日出版社の『アウシュビッツは終わらない』を読んだのが最初。なぜこれらの本を読んだのか、というと、単に図書館にあったから。「あるイタリア人生存者の考察」という副題に、レヴィがユダヤ人に多い苗字とも知らず、単にイタリア人兵士の話かなあ、ぐらい思ってページをめくったのでした。そういうわけで、当時の私には重すぎた。
しばらくすると、『今でなければいつ』が出て。こちらが出たので、書店の棚的には「プリーモ・レーヴィ」祭りのような感じがあったように記憶しています。偶然読んだ本の著者の新刊を読んだとき、ユダヤの問題はアウシュビッツという「空間」だけではないのだ、と思ったのでした。

その後、「イタリア映画祭」で彼の作品をドキュメンタリーとして再現した映画をわざわざ見に行った。
もうブログを始めていて、感想(こちら)もupした。
夜に見た、ということもあり、途中、ウトウトしてしまった部分がある。
映画を見たときにはまだ翻訳が入手しにくかった、映画では「帰郷」と紹介されていた(らしい)彼の作品が、この『休戦』です。

もう映画の内容は遠く彼方にいってしまい(もう一度、どこかで見たい!)、本は新鮮な気持ちで読みました。しかし、内容はやはり重く、私の日常は非常に多忙で、帰りの通勤電車の中でこの本を広げるには体力がなく・・・。いったん、時間が取れるまで置いておくことにしました。
中断していた本を取り出したのは、1月27日がアウシュビッツ解放の日である、ということやその意義をドイツのラジオで聞いたからです。
解放されたときの戸惑い、心身の破綻からの回復への過程は、その文章から伝わってくる彼らの感情は、毎年この時期になると世界各国(特にロシアとドイツのテレビ)の報道によって「想像はできる」気がする。本当に「わかっている」とは、私はとても言えないけれど。
しかし、レーヴィの「ユダヤ人」という集団の中にあっての「イタリア人」としての孤独は別の視点で考えさせられるものがあって・・・。

ユダヤ人としてはアウシュビッツからソ連軍に「解放」されたのかもしれないけれど、「イタリア人」としては解放をした連合国から見れば彼は「敵国人」である。だからこそ、単純に「解放」を意味する、または「帰郷」をイメージさせるタイトルではないのだ、と途中まで来て、ハッと気づいた。そして、もう一度、こういう二重の仕組みのなかで、プリーモがどうやって生き抜いていくかを読み直し、そして途中でストップしていたのです。

冬の終わりに開放され、春の間を通じてソ連(現在のベラルーシ)へと向かい、ルーマニアを経て、オーストリアからイタリアトリノへと移動をする間の見聞は、言葉が通じない問題、自分の体調、同胞(ここではイタリア系ユダヤ人)との関係、ソ連の想像を超えた意向、移動者を受けいる国々の思惑という縦糸横糸のそれぞれの色が場所場所で異なる。

通り過ぎた土地で思われている「ユダヤ人」感をレーヴィは様々な場所で「ほかのユダヤ人たち」と共に知り、それを利用し、それをかいくぐって生き抜いていく。
一方で、だからこそなのかもしれないけれど、帰郷への思いが揺らぐこともあったりする。自分の望まない場所で、家族関係を解消させられ、人間関係を壊され、いつ自分は死ぬのかと思いながら生きてきた。それが「日」という単位であろうと「月」であろうと「年」であろうと、それは個人的な体験としては誰にとっても過酷で、それを第三者が時の長さで度合いを(勝手に)計ってしまうのだ。

本を読んでいた時には、なんとなくだけれどその時々の風景が浮かび上がってきた。それは映画を見たからだったのか、それとも本に出てくる地名によっては少しは私もなじみがあるところだったからか、海外のドキュメンタリーが頭に残っているからか。
もう11年以上たっているので映画のことはあまり記憶にないのだけれど、今回本を読んで非常に印象に残ったところは、映画を見たときにも同じように思っていたことを、過去の記事を読み気づき、自分の成長のなさを感じた。一方で、やっぱり、ナチの犠牲になったユダヤ人がドイツを通らないとイタリアに帰ることができない、という地理的事情は、アウシュビッツ生存者にとっては非常につらいことだっただろうと思う。
やるせない思いはその時に限ったわけでなく、母の許に帰国してもレーヴィから消えることがなかった。

いまは入手できない映画だけど、やっぱりあのドキュメンタリーはもう一度見たい。

by eastwind-335 | 2019-02-07 21:18 | Books | Trackback | Comments(0)

21世紀のパディントン

お正月はちょっと頭を楽にさせたくて、買って1年近くほっておいたパディントンの新作3冊を一気に読みました。

新しい訳に不満はないのですが、どうして松岡享子さんじゃなかったのかなあ、と思ったり。出版社が変わっているので多分契約の問題もあったのでしょうね。

パディントンは変わらないけど時代が変わったからと、マイケル・ボンド氏は新作を発表したときに語ったそうです。

イギリスもミレニアムを迎える頃に大きくかわりましたもんね。新しいものを受け入れる人々を、クマを通して描いているんだなあ、と風刺作品もあるボンド氏らしい視点を通して四半世紀前を思い出しました。

私自身、家人との新婚旅行以来ロンドンにでかけていなかったので、新作におけるパディントンの戸惑いは自分のことのように思えました。

新しい訳は松岡訳を踏まえているようですが、グルーバーさんの扱いが違う。
英文にあたれば、ひょっとしたらボンド氏自身も表現を変えてきているのかもしれませんが・・・。
うまくいえないのだけど、新しい訳におけるグルーバーさんの存在は大きいです。新しい訳者さんは、ひょっとしたらグルーバーさんへの思い入れが強い人なのかなあ?
その一方で、「イングランドに生きるハンガリー人」の21世紀の日々を松岡訳だったらどういう日本語にしていたかなあと思う。

また、映画「ニコラス・ウィントンと669人のこどもたち」を見たことも、今回の私の読書に影響を及ぼしています。
パディントンが第二次世界大戦中のキンダートランスポート運動につながる存在であっただけでなく、ハンガリー出身のグルーバーさんもハンガリー動乱(1956年)の影響をいろいろと受けていたのだろうなあと想像しながら読んでしまいました。

もう子供の頃のような気分で読書はできない、というわけではありません。やっぱりパディントンの言動にひやひやしちゃいますからね。でも、それ以外のところについても一つ一つ目に行くようになった私。
名作は何度でも読み直すことができるのは本当だなあと思います。

まだ未邦訳の作品(手紙集)の訳は松岡さんにお願いしたいです!福音館書店、がんばれー!!!(って版権をWAVEが取ってしまっていたら身もふたもないことですが)

EU離脱問題にゆれる今、本当はボンドさんに1作書いてもらいたかったなあ・・・。でも、いい時代にボンドさんは作家活動をしていた、と言えるかもしれません。これはその時代にいきる作家へのご褒美かな。

by eastwind-335 | 2019-01-06 09:07 | Books | Trackback | Comments(0)

言葉のお年玉

甥は12月生まれなのですが、ついつい、毎年、誕生日プレゼントを贈るのが遅くなってしまいます。
今回は年明けに届けるありさま。

デキすぎ君との付き合いのないオバちゃんは、賢弟のお子である甥へのプレゼントにいつも悩んでしまいます。
ちょうど、大きな資格試験に合格したと聞いたばかりだったので、そのことに関わるかなあ?と思われるビジネスの文庫本を送りました。

毎年、仕事で出会った人(どういうわけか著作のある方とお会いします)の本から選ぶのですが、そういう方から頂きこの1年の間に読んだこのジャンルはあまりにマニアックすぎて(笑)。かといって、流行りの本だと読書家の弟が買って、甥と回し読みしているといけないしなあ。

かなり最後まで悩んだのは、プリーモ・レーヴィの『休戦』か、『第七の十字架』か・・・。しかし、下手に「ググられて」オバのこのブログにたどり着かれるのも・・・(笑)。

甥からお礼の電話があったのですが、その前に弟から「あれ、本違うだろ」と突っ込みが。弟もそれなりに私の選書を気にしていたのかしら?甥に選書の目的を伝えたら「ほら、やっぱり。東風ちゃんらしい理由だよね。」ですって。

甥には図書券も送るのですが、イマドキの大学生だから迷惑していないかしら、とちょっと心配だったので、今回、どういう形態の本を読んでいるのか確認してみました。
すると「ボクもね紙媒体で読むのが好きなんだ!」と。
うふふ。
こんなうれしいコトバを甥から聞けるなんて。
言葉のお年玉をもらった気分です。いや、お年玉を渡さねばならないのは、年長者であるワタクシのはずだったのに(爆)。

甥の読書傾向も教えてもらいました。ミステリーが好きだというので、私も!と思わず声をあげてしまいました。しかし日本の作家のほうが好きなんですって。翻訳の日本語は落ち着かない、と。えええ?と驚きました。かといって原著で読むわけではないようですが。
彼のお気に入りの作家は読んだことがなかったけれど、これを機会に読んでみようかしら。


by eastwind-335 | 2019-01-05 17:35 | Books | Trackback | Comments(0)

1作遅れで読んでます

昨日、私自身は3名の仮装者しか見なかったのですが、ハロウィンでした。
凄く疲れていて、私は夜ご飯を食べ終わったら即座に寝てしまいました。そして2時ごろ、腕の痛みで(前に比べたらずっと痛みは弱くなりましたが、腕は相変わらず90度ぐらいしかあがらない)目が覚め、少し布団の中で本を読みました。

布団の中で本を読む気がするほどには回復している、と思いたい。

読み始めたのは、ドイツの警察小説『穢れた風』。
フランクフルトからさほど遠くないヘッセン州のある町を舞台としたシリーズ。新刊として出るときには手を取っても裏表紙の簡単な解説しか読まない。そして定価では買わず、古本屋に出ているのを見つけたら買う。翻訳本紹介サイトみたいなところで評判になり始めたときは「ふーん」ぐらいだったのだけど、2年ぐらい前の夏だったかな、古本チェーン店に定価の半額ぐらいで出ていた。で、たまたま手に取った本が翻訳順番だと3冊目だったけど、本国の出版順だとこれが第一作とわかった。1.5冊分の値段で3冊買えるのだから、とまとめ買い。「上司と部下がduzenするまでに至る3作目までは面白かった」ので、後日4冊目も買った(これは半額にはなっていなかった)。

4作目になるとちょっぴりシリーズの登場人物たちの私生活の方向性が「うーん」と首をひねりたくなっているのですが、事件そのものは「面白い」。

先週、久しぶりに入った古本屋に第5作目である『穢れた風』あったのでした。「買うぞ!」即決しましたよ!
夜、目が覚めてしまった時に30分ぐらい読むだけなので、一向にページが進まないのですが、ますます登場人物の私生活は「はあ、そうですか」って感じになりつつあるけど、「所詮、これは娯楽小説なのだ!」と思えば「売れるためには仕方ない仕組み」なんだろうなあ、と。事件の背景は案外堅いところを踏まえているのに、なんとなく「土曜ワイド劇場」のノベライズ化のような印象を抱く私って・・・。

それより、もっと気になるのは、ドイツ人だったらお約束の言葉に対する翻訳文内での説明の少なさ。全くないとは言わないけど、ここもあるほうが心情がわかりそうだけどなあー、って。
ドイツの警察小説を読む日本人はドイツのことを知っている、がお約束なのかなあ。「ドイツ人だったら「こういうタイプ」」とイメージづけられるドラマのタイトルとか作家の名前が何か所か出ているのだけど、あれ、スルーしちゃうのかな。それとももはや「読者努力」でググれっていうのが前提なのかなあ。としたら、ドイツの長寿刑事ドラマTatortを「事件現場」とのみ訳しただけって、初めて読む日本人にはその面白さが伝わらないような・・・。
いつから( )に括った説明を翻訳小説にはつけなくなったのかしら・・・。
ドイツ語文学の翻訳は英語圏に比べるとぐっと少ないわけですが、文庫本解説のところで触れるぐらいできないのかしら・・・と思いながら先に解説のページをめくるも「あ、無理だな」と。文庫本解説は別に「ドイツ通」の人ばかりが担当するわけじゃない様子。

ドイツ語の警察ドラマ、結構面白いと思うのだけど、どうしてミス(テリー)チャン(ネル)で取り上げないのかなあー。
北欧OKだったらドイツ語の新作ドラマだっていいじゃん!

昨日久しぶりにポーランドの警察ドラマ(本当に地味によくできた、一方で「ポーランドのある種のナショナリズム」がクンクンと臭うドラマ)やフランスの警察ドラマ(ダンケルクが舞台とは!)をミスチャンで見たからか非英語圏のドラマをもっと見たいなあーと。

あー、スイスの葬儀屋シリーズの続きはもう放送してくれないのかなあ。あれ、面白かったのに!

by eastwind-335 | 2018-11-01 06:26 | Books | Trackback | Comments(0)

岩波新書

PR誌好きな私、紀伊国屋書店でちょくちょくPR誌をいただきます(もちろん、本も買って帰ります)。
旅行にも数社のPR誌を持っていくほど。ちょうど機内で読むのに都合がよいのです。文庫本はあまりにも「自分」がですぎていて、恥ずかしい感じがするから(笑)。

先日いただいたPR誌は、岩波の『図書』の特別版。岩波新書ができて80周年を記念した号「はじめての新書」。

学生時代、新書は「本」ではない、とまで言い切るような先生もいた環境に身を置いていたこともあり、「はじめての」と銘打たれると、なんかドキドキしちゃう。
高校生になった時に、児童書でも文藝小説でもなく、「知」というものに初めて接近したのは、新書を通してだった。

赤版、青版、黄色版、あった、あった。いまは基本的に新装赤版。

特集号は「はじめて」でない人たちだって胸躍る内容。
新書との出会い、おすすめする新書とその理由は「わかる!わたしもそうだった!」と、会ったこともない、名前だけの著名人のちょっとした言説に「わたしもー!」と時を超えて場を超えて、紙面を通して共鳴してしまう。

この特集号のすごいのは、「岩波新書」オンリーではないってこと!まだ岩波新書で書いたことがない人も「私と「新書」」について書いているし、おすすめの新書だって他社のものをあげている人たちも。

最後は、新書を出している他社の新書編集長に、おすすめの新書と岩波新書の中のおすすめをあげてもらっていた。

新書80周年を自社の回顧と展望のような形にせず、書籍の形態の一つとして「新書」を取り上げ、盛り上げていこうとする。そういう姿勢は、読み手として嬉しいものがあります。

いっぽう、一つだけ残念だったのは80年前の新書を売り出した人々への思いがわかるはずの、新書の版が変わるごとにでた「発足の辞」が一向に取り上げられなかったということ。80年前は戦争の時だった。なぜその時に新書ができたのか、新版が出る時代までの間、新赤版が1000点になった時の辞、等々、「新書」とはこういうものだ、と初めての人に伝えたかったら、中身よりも矜恃だろうに、と思う私は堅物すぎるかしら?
でも、物事には「理念」「夢」があるはず。文字が読めたら子供だろうと大人だろうと対等。年齢も性別も超えた読書への喜びが大切だったのになあ。岩波新書らしさもそこから感じられるのに。

あれだけはもったいない。


by eastwind-335 | 2018-10-25 23:14 | Books | Trackback | Comments(0)

久しぶりにPOPEYE

「ひとりっぷ」という言葉を目にすることが増えました。音声よりは文字のほうが圧倒的に多い気がします。
なんといっても「ひとりっぷ」という本がでるぐらいですもんね。

もともとはおしゃれ女性雑誌のエディターさんが、コラムで用いていたそうです。
なんでもない女性が「一人旅」というと寂しい感じがするのでしょうが、おしゃれ雑誌で「ひとりっぷ」と言い換えが始まると、それは流行になる。

弟が同居していたころは、わが家には「POPEYE」が時々ありました。私もよく読んでいた。これをきっかけに、私は「ブルータス」へと、男性の雑誌の方面に足を突っ込むことに。だって、女子大生やOLが愛読していた光文社の年代別雑誌は読み物が少なくて私の生活や性格とは相いれないところが多かったから。

弟が下宿をするようになり、私も結婚して、生活がかわると、Popeyeは自然と遠のいていった。ま、「ブルータス」を読み始めると、ポパイは子供っぽい雑誌に思えてきたというのもあるし、家人はマガジンハウスには縁遠いひとなので(笑)。

そして、昨日、20余年ぶりに、私はPopeyeを取り寄せましたよ!コンビニの棚に「一人旅に行ってきます」って表紙に書いてあるのを見かけたので。
まだペラっとめくっただけだけど、以前の「Ku:nel」のような温かい感じ。
(もう、Ku:nelは料理特集の時だけしか買わなくなった私。だから、今出ている号はすぐに取り寄せたけど)
いま、Popeyeは何歳ぐらいの読者層を想定しているのかなあ?大学生ぐらいなのかしら?もうちょっと上かしら?
大学生ってこんな高いお値段の服を買うのかなあ?うちの甥はこういう雑誌を目にすることがあるんだろうか・・・。

そして、つくづく思うのは、なんで男性用のアウトドアウェアーはこんなに素敵な色なのだろうか、ということ。

一昨日も、日比谷シャンテの3階にあるアウトドアウェアーのお店をはしごしながら、遠目に「あ、この色いいなー」と思いきや、それはメンズです、と。バナナリパブリックでも、セーターの微妙な色あいに心惹かれるのはメンズ。
欧米だと体のしっかりした女性も多いからユニセックスなのかもしれないけれど、日本は、そしていかにも日本の中年女性の体形である私にはメンズの仕立てはあわない(腕周りや腰回りとか狭すぎるー!)。

ま、着るものなんてどうでもいい。それよりも、ああ、旅に出たい。

by eastwind-335 | 2018-10-23 06:59 | Books | Trackback | Comments(0)

読み終わった『第七の十字架』

通勤の合間に読み進めていった『第七の十字架』。
ついに、ついに、下巻の「解説」まで読み終わりました!

抵抗文学というジャンルに括られた小説を読んだのは始めてだったので、上巻の読み始めはかなり緊張していたのですが(文脈を読み違えないでいられるか、と)、読み進めているうちに「抵抗文学」というよりも「冒険小説」を読んでいるような感覚になっている自分に気づきました。
このことは、本当につらかった。
自分がこの小説が書かれた時代から遠くにいるためなのか、人々の「抵抗」というものよりも、私自身が主人公たち7人、とくにリーダー格のゲオルクはどうなってしまうのだろう、とか、彼の逃亡中に出会う人々とのエピソードは、まるでアメリカで作られた無実の罪を背負わされたキンブル医師の逃亡ドラマ「逃亡者」のように思いながら読んでいるのですから。
そこまで「抵抗」のところにこだわる必要がないのかもしれませんが、50年前のことを背景にした「エンターテイメント」を目的とする冒険小説ではなく、まさにそのことが行われている同時代の文学ほど後年読むときが難しい気がします。本当にその時の危機感を感じ取ることができているのだろうか、と私は思うのです。

ま、こういうところが私の「七面倒くさいオンナ」と言われちゃうゆえんなのかなあ。

あまりに多くの登場人物が出てくる小説ですが、読み進めていくと、一人ひとりの背景が異なるため、一人として「捨て駒」がない。
彼らの説明、セリフ、行動を通して、ナチス時代の「強制収容所」のもう一つの側面を描く小説。
「歴史を選択科目にしない高校生レベル」の知識はせいぜい「ナチスの強制収容所=ユダヤ人」どまりだから、その強制収容所にナチスが「ゲルマン」と定義している人々も収容されていたことを。むしろ、そちらのほうが「先」だったということを。

宗教上の差異を理由にした絶滅収容所だって「いきなり」できたわけではない。でも、受験の時にはそこまで詳しく教える教師ってどのくらいいるのかしら?予備校の先生だと教えるのかなあ(←予備校や塾に行ったことがないのでわからない)。
だいたい、メディアだって「ナチ=アウシュビッツ」の面ばかり取り上げるし。

学生の頃、ドイツ史のクラスは第三帝国を主として扱う先生がもっていらした。
え?そうなの?と授業中に思うことがたくさんあった。ナチスの悪を、イメージではなく、その「過程」で語る先生の講義内容すべてを、先生の期待するレベルで理解できたか、というと本当に自信がないけれども、歴史学は史料があっての学問だ、ということをより強く意識したのです。
上巻も終わりに近づいてきたころ、その先生が1年かけて(21世紀の大学と違って、20世紀の日本の大学は「1年かけて」一つのテーマを追うことができる幸せな時代だった)話していたことが、この小説の歴史的背景なのだ、という思いが体の隅々までいきわたりました。いま、具体的にその時の先生の語りを思い出せるか、といえば・・・ダメダメ学生だった私は全くお手上げ。でも、取り上げた場に自分がいた、ということを忘れちゃいけないし、記憶の引き出しを開けるチャンスから逃げちゃいけない、と思いました。

ところで、作者アンナ・ゼーガースはユダヤ人であるけれど、この物語の中では自分の生まれ育ったラインラントのキリスト教文化の生活をむしろ表面に出す。
彼女の亡命生活について記された「解説」は、もう一つの「第七の十字架」のよう(ちょっと、いきなりなところもあったりして、解説を書いた人には質問したいこともあるんですけどね)。まだ、何冊も作品があるそうだから、これを機会に、ゼーガースの翻訳がもう一つでも出るといいのになあ。ドイツでは数年前にコミックスが再販されたそうです。

買っちゃうかも・・・。




by eastwind-335 | 2018-10-21 15:22 | Books | Trackback | Comments(0)

じっくり読みたい本ができた!

昔に比べて岩波文庫は字も字間も行間もゆったりしてきたなあ、と久々に思いました。
老眼がすすみ、眼鏡をはずして本を読むほうが楽になっているこの頃、私は出勤時には裸眼ででかけることが増えました。
職場ではコンタクトを入れます。帰りはコンタクトをしたまま。眼鏡よりは目に(脳に?)楽だからいいんですけどね。

今読み始めているのは、ドイツの「抵抗文学」の代表作。アンナ・ゼーガースの『第七の十字架』。岩波の新刊かと思っていましたけれど、1952年に筑摩書房から出ていたんですって。文庫本は1972年の河出書房新社版を底本にしているのだそう。

文庫版の表紙に書かれている(岩波文庫は帯の代わりに表紙をうまく使うんだよね)あらすじによれば、ナチの強制収容所から脱走した7人の囚人と彼らをとりまく人々を描く小説だと。
上下2冊本なので、下巻の最後の「解説」まで結果がわからない、ある種「ミステリー小説」っぽい感じなのかなあ?と思いながら上巻をめくると、さっそく「訳者まえがき」があるという。

そこには、多くの登場人物の紹介。本文登場順ではなく、たぶん、小説内の重要度順なのでしょうが、じっくり紹介を読むと「あれあれ?ネタばれになるんじゃ?」みたいなこともあったりして(笑)。出てくる人たちの量は、早川文庫や創元推理文庫だと文庫本の両側の耳いっぱいに書き連ねられそうなほど。まるでクリスティの小説みたいに・・・。

そしてそれだけみっちり書かれた訳者前書きをじっくり読んでしまうと、「前書き」にはない、または記憶に残っていない登場人物がでてきても、それなりのセリフなのではないか、と深読みをしてしまい、スラスラとページが進むわけではありません。
ただ、昔の岩波文庫とことなり、字のサイズも字間も行間も適度に確保されている。その間隔は、私が文章をめぐって行ったり来たりするのを邪魔しない(私見ですが、一部の出版社の文庫本の間隔は間延びしすぎていたり、字が大きすぎたりで、相性が悪いなあと思う社のものもある)。

この収容所は強制収容所で、絶滅収容所ではないので、ユダヤ人のことではなく、反ナチである「ドイツ人」が主人公。だから「ナチ」物という括りにはなるけれど、また違った観点で、知識で読み進めねばならない・・・。
小説の中ではフランクフルトだのマインツだの具体的な地名をちりばめられている。でもこの収容所がある町が「実在」したのか、となると、私にはその区別がつかず・・・。ただ、実録小説ではないようだから、「このあたり」ということなのだろう、と思いながら読んでいます。いまやググればすぐにわかるのだろうから、チェックしてから読むべきかもしれないけれど、ま、「小説」だから。ただ地域性はうっすらでも理解しておきたい。決めつけじゃなくて、ドイツに暮らす人とが「ああ、あそこはね」という感じで・・・。

実は下巻を買うときに紀伊国屋で「解説」部分をちらっと立ち読みしたのです。この作品が書かれた背景、環境、そして作家ゼーガースの戦後の生き方を「立ち読み程度」に知りました。
まだ上巻の初めの数ページしか読み進めていませんが、じっくり読み終えたら、次はこれを読もう、と思う作家の名前が頭に浮かんできました。日本人作家です。しかし、連休が続くといっても「休日出勤」が続くワタクシ。いつこの上下巻を読み終えるんだ、とちょっと遠い目にもなっています。


by eastwind-335 | 2018-09-06 06:58 | Books | Trackback | Comments(0)

まとめて1冊になるワクワクとドキドキ

その昔、自己紹介文に「趣味は読書」と書いておきながら、本当はそれほど「小説」を読んでいるわけじゃないんだよねー、と思うことがしばしばありました。たえず1冊の本がカバンの中に入っていますが、流行りの小説を読むことはありません。特に最近は、メディアで取り上げられる小説は「あー、いずれテレビドラマ化されて、スピンオフで映画化かー」と、表紙の向こうにある姿が見えてしまうからです。

ただ、新聞の連載小説、特に朝刊の小説は目を通すようにしています。ただし、初回を読み忘れることは結構あります。途中を読まないことも結構あります(特に海外旅行の際は月単位で新聞を止めてしまうので)。
最近では『七夜物語』が面白かった。自分自身の子供時代と同時代だ、とわかってからは、特に。そして作品から石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』の香りがただよっていることも。パクリとはちがう。オマージュとはこういうものだ、と。
そして、最近では、吉田修一の『国宝』が面白かった。私は流行作家としての彼の作品を読みたい、と思ったことはなく(テレビドラマ化されている、という点で、私なりのフィルターがかかっている)、初回からしばらくは目を通したものの「どうせドラマ化されることが前提の話づくりなんだろうなあ」と思っていました。
でもいつのころだろう。どんどんと歌舞伎の世界が「当事者」として描かれるようになる主人公たちの二十歳前後からかしら。ちょうど「ワンピース」の公演で主人公を演じる予定だった役者が宙づりから落ちてしまい、若手公演で主人公を演じる予定だった役者が代役を務めることになった。私はもともと「若手公演」の部を見る予定だったのですが、そんなこんなのアクシデントのなかで、まさに台本のように「兄貴分がいなくなった中で彼がリーダーになっていく」を地でいくように演じるだけでなく、成長を示す、そんな舞台を見たころから、新聞連載は二次元ではあるけれど、まさに自分の目の前で繰り広げられているような感覚を毎朝覚えるようになりました。

当然のことながら、連載終了後すぐに単行本化されると予告がでました。
読まなかった回、読んでいても忘れている回も通して読めるのは楽しみ。とはいえ、私はしばらくして図書館で手に取ることになる気がしますが・・・。
心の中で願ったのは、どうか連載のままで単行本化されますように、と。

というのも、『七夜物語』は加筆修正があったのです。それでつまらなくなった、というわけではないのですけれど、オリジナルのあのドキドキするようなところが、私が好きだったあの部分が変わっちゃった、というガッカリな気分も否めない。自分勝手な思いですが(待てば文庫本化されるとわかっていたけど)2冊の単行本が出てすぐに買ったのに、がっかりするとは思わなかった、って。

昨日、書店で販促用のリーフレットが出ていた。思わずもらってしまった。
一日一日を読み切るのと、1冊を読むのでは、視点が変わってくるだろうから、1冊を読み切ってもらえるよう加筆修正が必要なのだろうけれど。あの一日一日の「場」は「一幕もの」のよう。とくに芝居を描く内容の本だからあまり手が加わりませんように・・・。

by eastwind-335 | 2018-07-11 07:25 | Books | Trackback | Comments(0)

東風のささやかな毎日のささやかな記録


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