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1作遅れで読んでます

昨日、私自身は3名の仮装者しか見なかったのですが、ハロウィンでした。
凄く疲れていて、私は夜ご飯を食べ終わったら即座に寝てしまいました。そして2時ごろ、腕の痛みで(前に比べたらずっと痛みは弱くなりましたが、腕は相変わらず90度ぐらいしかあがらない)目が覚め、少し布団の中で本を読みました。

布団の中で本を読む気がするほどには回復している、と思いたい。

読み始めたのは、ドイツの警察小説『穢れた風』。
フランクフルトからさほど遠くないヘッセン州のある町を舞台としたシリーズ。新刊として出るときには手を取っても裏表紙の簡単な解説しか読まない。そして定価では買わず、古本屋に出ているのを見つけたら買う。翻訳本紹介サイトみたいなところで評判になり始めたときは「ふーん」ぐらいだったのだけど、2年ぐらい前の夏だったかな、古本チェーン店に定価の半額ぐらいで出ていた。で、たまたま手に取った本が翻訳順番だと3冊目だったけど、本国の出版順だとこれが第一作とわかった。1.5冊分の値段で3冊買えるのだから、とまとめ買い。「上司と部下がduzenするまでに至る3作目までは面白かった」ので、後日4冊目も買った(これは半額にはなっていなかった)。

4作目になるとちょっぴりシリーズの登場人物たちの私生活の方向性が「うーん」と首をひねりたくなっているのですが、事件そのものは「面白い」。

先週、久しぶりに入った古本屋に第5作目である『穢れた風』あったのでした。「買うぞ!」即決しましたよ!
夜、目が覚めてしまった時に30分ぐらい読むだけなので、一向にページが進まないのですが、ますます登場人物の私生活は「はあ、そうですか」って感じになりつつあるけど、「所詮、これは娯楽小説なのだ!」と思えば「売れるためには仕方ない仕組み」なんだろうなあ、と。事件の背景は案外堅いところを踏まえているのに、なんとなく「土曜ワイド劇場」のノベライズ化のような印象を抱く私って・・・。

それより、もっと気になるのは、ドイツ人だったらお約束の言葉に対する翻訳文内での説明の少なさ。全くないとは言わないけど、ここもあるほうが心情がわかりそうだけどなあー、って。
ドイツの警察小説を読む日本人はドイツのことを知っている、がお約束なのかなあ。「ドイツ人だったら「こういうタイプ」」とイメージづけられるドラマのタイトルとか作家の名前が何か所か出ているのだけど、あれ、スルーしちゃうのかな。それとももはや「読者努力」でググれっていうのが前提なのかなあ。としたら、ドイツの長寿刑事ドラマTatortを「事件現場」とのみ訳しただけって、初めて読む日本人にはその面白さが伝わらないような・・・。
いつから( )に括った説明を翻訳小説にはつけなくなったのかしら・・・。
ドイツ語文学の翻訳は英語圏に比べるとぐっと少ないわけですが、文庫本解説のところで触れるぐらいできないのかしら・・・と思いながら先に解説のページをめくるも「あ、無理だな」と。文庫本解説は別に「ドイツ通」の人ばかりが担当するわけじゃない様子。

ドイツ語の警察ドラマ、結構面白いと思うのだけど、どうしてミス(テリー)チャン(ネル)で取り上げないのかなあー。
北欧OKだったらドイツ語の新作ドラマだっていいじゃん!

昨日久しぶりにポーランドの警察ドラマ(本当に地味によくできた、一方で「ポーランドのある種のナショナリズム」がクンクンと臭うドラマ)やフランスの警察ドラマ(ダンケルクが舞台とは!)をミスチャンで見たからか非英語圏のドラマをもっと見たいなあーと。

あー、スイスの葬儀屋シリーズの続きはもう放送してくれないのかなあ。あれ、面白かったのに!

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by eastwind-335 | 2018-11-01 06:26 | Books | Trackback | Comments(0)

岩波新書

PR誌好きな私、紀伊国屋書店でちょくちょくPR誌をいただきます(もちろん、本も買って帰ります)。
旅行にも数社のPR誌を持っていくほど。ちょうど機内で読むのに都合がよいのです。文庫本はあまりにも「自分」がですぎていて、恥ずかしい感じがするから(笑)。

先日いただいたPR誌は、岩波の『図書』の特別版。岩波新書ができて80周年を記念した号「はじめての新書」。

学生時代、新書は「本」ではない、とまで言い切るような先生もいた環境に身を置いていたこともあり、「はじめての」と銘打たれると、なんかドキドキしちゃう。
高校生になった時に、児童書でも文藝小説でもなく、「知」というものに初めて接近したのは、新書を通してだった。

赤版、青版、黄色版、あった、あった。いまは基本的に新装赤版。

特集号は「はじめて」でない人たちだって胸躍る内容。
新書との出会い、おすすめする新書とその理由は「わかる!わたしもそうだった!」と、会ったこともない、名前だけの著名人のちょっとした言説に「わたしもー!」と時を超えて場を超えて、紙面を通して共鳴してしまう。

この特集号のすごいのは、「岩波新書」オンリーではないってこと!まだ岩波新書で書いたことがない人も「私と「新書」」について書いているし、おすすめの新書だって他社のものをあげている人たちも。

最後は、新書を出している他社の新書編集長に、おすすめの新書と岩波新書の中のおすすめをあげてもらっていた。

新書80周年を自社の回顧と展望のような形にせず、書籍の形態の一つとして「新書」を取り上げ、盛り上げていこうとする。そういう姿勢は、読み手として嬉しいものがあります。

いっぽう、一つだけ残念だったのは80年前の新書を売り出した人々への思いがわかるはずの、新書の版が変わるごとにでた「発足の辞」が一向に取り上げられなかったということ。80年前は戦争の時だった。なぜその時に新書ができたのか、新版が出る時代までの間、新赤版が1000点になった時の辞、等々、「新書」とはこういうものだ、と初めての人に伝えたかったら、中身よりも矜恃だろうに、と思う私は堅物すぎるかしら?
でも、物事には「理念」「夢」があるはず。文字が読めたら子供だろうと大人だろうと対等。年齢も性別も超えた読書への喜びが大切だったのになあ。岩波新書らしさもそこから感じられるのに。

あれだけはもったいない。


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by eastwind-335 | 2018-10-25 23:14 | Books | Trackback | Comments(0)

久しぶりにPOPEYE

「ひとりっぷ」という言葉を目にすることが増えました。音声よりは文字のほうが圧倒的に多い気がします。
なんといっても「ひとりっぷ」という本がでるぐらいですもんね。

もともとはおしゃれ女性雑誌のエディターさんが、コラムで用いていたそうです。
なんでもない女性が「一人旅」というと寂しい感じがするのでしょうが、おしゃれ雑誌で「ひとりっぷ」と言い換えが始まると、それは流行になる。

弟が同居していたころは、わが家には「POPEYE」が時々ありました。私もよく読んでいた。これをきっかけに、私は「ブルータス」へと、男性の雑誌の方面に足を突っ込むことに。だって、女子大生やOLが愛読していた光文社の年代別雑誌は読み物が少なくて私の生活や性格とは相いれないところが多かったから。

弟が下宿をするようになり、私も結婚して、生活がかわると、Popeyeは自然と遠のいていった。ま、「ブルータス」を読み始めると、ポパイは子供っぽい雑誌に思えてきたというのもあるし、家人はマガジンハウスには縁遠いひとなので(笑)。

そして、昨日、20余年ぶりに、私はPopeyeを取り寄せましたよ!コンビニの棚に「一人旅に行ってきます」って表紙に書いてあるのを見かけたので。
まだペラっとめくっただけだけど、以前の「Ku:nel」のような温かい感じ。
(もう、Ku:nelは料理特集の時だけしか買わなくなった私。だから、今出ている号はすぐに取り寄せたけど)
いま、Popeyeは何歳ぐらいの読者層を想定しているのかなあ?大学生ぐらいなのかしら?もうちょっと上かしら?
大学生ってこんな高いお値段の服を買うのかなあ?うちの甥はこういう雑誌を目にすることがあるんだろうか・・・。

そして、つくづく思うのは、なんで男性用のアウトドアウェアーはこんなに素敵な色なのだろうか、ということ。

一昨日も、日比谷シャンテの3階にあるアウトドアウェアーのお店をはしごしながら、遠目に「あ、この色いいなー」と思いきや、それはメンズです、と。バナナリパブリックでも、セーターの微妙な色あいに心惹かれるのはメンズ。
欧米だと体のしっかりした女性も多いからユニセックスなのかもしれないけれど、日本は、そしていかにも日本の中年女性の体形である私にはメンズの仕立てはあわない(腕周りや腰回りとか狭すぎるー!)。

ま、着るものなんてどうでもいい。それよりも、ああ、旅に出たい。

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by eastwind-335 | 2018-10-23 06:59 | Books | Trackback | Comments(0)

読み終わった『第七の十字架』

通勤の合間に読み進めていった『第七の十字架』。
ついに、ついに、下巻の「解説」まで読み終わりました!

抵抗文学というジャンルに括られた小説を読んだのは始めてだったので、上巻の読み始めはかなり緊張していたのですが(文脈を読み違えないでいられるか、と)、読み進めているうちに「抵抗文学」というよりも「冒険小説」を読んでいるような感覚になっている自分に気づきました。
このことは、本当につらかった。
自分がこの小説が書かれた時代から遠くにいるためなのか、人々の「抵抗」というものよりも、私自身が主人公たち7人、とくにリーダー格のゲオルクはどうなってしまうのだろう、とか、彼の逃亡中に出会う人々とのエピソードは、まるでアメリカで作られた無実の罪を背負わされたキンブル医師の逃亡ドラマ「逃亡者」のように思いながら読んでいるのですから。
そこまで「抵抗」のところにこだわる必要がないのかもしれませんが、50年前のことを背景にした「エンターテイメント」を目的とする冒険小説ではなく、まさにそのことが行われている同時代の文学ほど後年読むときが難しい気がします。本当にその時の危機感を感じ取ることができているのだろうか、と私は思うのです。

ま、こういうところが私の「七面倒くさいオンナ」と言われちゃうゆえんなのかなあ。

あまりに多くの登場人物が出てくる小説ですが、読み進めていくと、一人ひとりの背景が異なるため、一人として「捨て駒」がない。
彼らの説明、セリフ、行動を通して、ナチス時代の「強制収容所」のもう一つの側面を描く小説。
「歴史を選択科目にしない高校生レベル」の知識はせいぜい「ナチスの強制収容所=ユダヤ人」どまりだから、その強制収容所にナチスが「ゲルマン」と定義している人々も収容されていたことを。むしろ、そちらのほうが「先」だったということを。

宗教上の差異を理由にした絶滅収容所だって「いきなり」できたわけではない。でも、受験の時にはそこまで詳しく教える教師ってどのくらいいるのかしら?予備校の先生だと教えるのかなあ(←予備校や塾に行ったことがないのでわからない)。
だいたい、メディアだって「ナチ=アウシュビッツ」の面ばかり取り上げるし。

学生の頃、ドイツ史のクラスは第三帝国を主として扱う先生がもっていらした。
え?そうなの?と授業中に思うことがたくさんあった。ナチスの悪を、イメージではなく、その「過程」で語る先生の講義内容すべてを、先生の期待するレベルで理解できたか、というと本当に自信がないけれども、歴史学は史料があっての学問だ、ということをより強く意識したのです。
上巻も終わりに近づいてきたころ、その先生が1年かけて(21世紀の大学と違って、20世紀の日本の大学は「1年かけて」一つのテーマを追うことができる幸せな時代だった)話していたことが、この小説の歴史的背景なのだ、という思いが体の隅々までいきわたりました。いま、具体的にその時の先生の語りを思い出せるか、といえば・・・ダメダメ学生だった私は全くお手上げ。でも、取り上げた場に自分がいた、ということを忘れちゃいけないし、記憶の引き出しを開けるチャンスから逃げちゃいけない、と思いました。

ところで、作者アンナ・ゼーガースはユダヤ人であるけれど、この物語の中では自分の生まれ育ったラインラントのキリスト教文化の生活をむしろ表面に出す。
彼女の亡命生活について記された「解説」は、もう一つの「第七の十字架」のよう(ちょっと、いきなりなところもあったりして、解説を書いた人には質問したいこともあるんですけどね)。まだ、何冊も作品があるそうだから、これを機会に、ゼーガースの翻訳がもう一つでも出るといいのになあ。ドイツでは数年前にコミックスが再販されたそうです。

買っちゃうかも・・・。




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by eastwind-335 | 2018-10-21 15:22 | Books | Trackback | Comments(0)

じっくり読みたい本ができた!

昔に比べて岩波文庫は字も字間も行間もゆったりしてきたなあ、と久々に思いました。
老眼がすすみ、眼鏡をはずして本を読むほうが楽になっているこの頃、私は出勤時には裸眼ででかけることが増えました。
職場ではコンタクトを入れます。帰りはコンタクトをしたまま。眼鏡よりは目に(脳に?)楽だからいいんですけどね。

今読み始めているのは、ドイツの「抵抗文学」の代表作。アンナ・ゼーガースの『第七の十字架』。岩波の新刊かと思っていましたけれど、1952年に筑摩書房から出ていたんですって。文庫本は1972年の河出書房新社版を底本にしているのだそう。

文庫版の表紙に書かれている(岩波文庫は帯の代わりに表紙をうまく使うんだよね)あらすじによれば、ナチの強制収容所から脱走した7人の囚人と彼らをとりまく人々を描く小説だと。
上下2冊本なので、下巻の最後の「解説」まで結果がわからない、ある種「ミステリー小説」っぽい感じなのかなあ?と思いながら上巻をめくると、さっそく「訳者まえがき」があるという。

そこには、多くの登場人物の紹介。本文登場順ではなく、たぶん、小説内の重要度順なのでしょうが、じっくり紹介を読むと「あれあれ?ネタばれになるんじゃ?」みたいなこともあったりして(笑)。出てくる人たちの量は、早川文庫や創元推理文庫だと文庫本の両側の耳いっぱいに書き連ねられそうなほど。まるでクリスティの小説みたいに・・・。

そしてそれだけみっちり書かれた訳者前書きをじっくり読んでしまうと、「前書き」にはない、または記憶に残っていない登場人物がでてきても、それなりのセリフなのではないか、と深読みをしてしまい、スラスラとページが進むわけではありません。
ただ、昔の岩波文庫とことなり、字のサイズも字間も行間も適度に確保されている。その間隔は、私が文章をめぐって行ったり来たりするのを邪魔しない(私見ですが、一部の出版社の文庫本の間隔は間延びしすぎていたり、字が大きすぎたりで、相性が悪いなあと思う社のものもある)。

この収容所は強制収容所で、絶滅収容所ではないので、ユダヤ人のことではなく、反ナチである「ドイツ人」が主人公。だから「ナチ」物という括りにはなるけれど、また違った観点で、知識で読み進めねばならない・・・。
小説の中ではフランクフルトだのマインツだの具体的な地名をちりばめられている。でもこの収容所がある町が「実在」したのか、となると、私にはその区別がつかず・・・。ただ、実録小説ではないようだから、「このあたり」ということなのだろう、と思いながら読んでいます。いまやググればすぐにわかるのだろうから、チェックしてから読むべきかもしれないけれど、ま、「小説」だから。ただ地域性はうっすらでも理解しておきたい。決めつけじゃなくて、ドイツに暮らす人とが「ああ、あそこはね」という感じで・・・。

実は下巻を買うときに紀伊国屋で「解説」部分をちらっと立ち読みしたのです。この作品が書かれた背景、環境、そして作家ゼーガースの戦後の生き方を「立ち読み程度」に知りました。
まだ上巻の初めの数ページしか読み進めていませんが、じっくり読み終えたら、次はこれを読もう、と思う作家の名前が頭に浮かんできました。日本人作家です。しかし、連休が続くといっても「休日出勤」が続くワタクシ。いつこの上下巻を読み終えるんだ、とちょっと遠い目にもなっています。


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by eastwind-335 | 2018-09-06 06:58 | Books | Trackback | Comments(0)

まとめて1冊になるワクワクとドキドキ

その昔、自己紹介文に「趣味は読書」と書いておきながら、本当はそれほど「小説」を読んでいるわけじゃないんだよねー、と思うことがしばしばありました。たえず1冊の本がカバンの中に入っていますが、流行りの小説を読むことはありません。特に最近は、メディアで取り上げられる小説は「あー、いずれテレビドラマ化されて、スピンオフで映画化かー」と、表紙の向こうにある姿が見えてしまうからです。

ただ、新聞の連載小説、特に朝刊の小説は目を通すようにしています。ただし、初回を読み忘れることは結構あります。途中を読まないことも結構あります(特に海外旅行の際は月単位で新聞を止めてしまうので)。
最近では『七夜物語』が面白かった。自分自身の子供時代と同時代だ、とわかってからは、特に。そして作品から石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』の香りがただよっていることも。パクリとはちがう。オマージュとはこういうものだ、と。
そして、最近では、吉田修一の『国宝』が面白かった。私は流行作家としての彼の作品を読みたい、と思ったことはなく(テレビドラマ化されている、という点で、私なりのフィルターがかかっている)、初回からしばらくは目を通したものの「どうせドラマ化されることが前提の話づくりなんだろうなあ」と思っていました。
でもいつのころだろう。どんどんと歌舞伎の世界が「当事者」として描かれるようになる主人公たちの二十歳前後からかしら。ちょうど「ワンピース」の公演で主人公を演じる予定だった役者が宙づりから落ちてしまい、若手公演で主人公を演じる予定だった役者が代役を務めることになった。私はもともと「若手公演」の部を見る予定だったのですが、そんなこんなのアクシデントのなかで、まさに台本のように「兄貴分がいなくなった中で彼がリーダーになっていく」を地でいくように演じるだけでなく、成長を示す、そんな舞台を見たころから、新聞連載は二次元ではあるけれど、まさに自分の目の前で繰り広げられているような感覚を毎朝覚えるようになりました。

当然のことながら、連載終了後すぐに単行本化されると予告がでました。
読まなかった回、読んでいても忘れている回も通して読めるのは楽しみ。とはいえ、私はしばらくして図書館で手に取ることになる気がしますが・・・。
心の中で願ったのは、どうか連載のままで単行本化されますように、と。

というのも、『七夜物語』は加筆修正があったのです。それでつまらなくなった、というわけではないのですけれど、オリジナルのあのドキドキするようなところが、私が好きだったあの部分が変わっちゃった、というガッカリな気分も否めない。自分勝手な思いですが(待てば文庫本化されるとわかっていたけど)2冊の単行本が出てすぐに買ったのに、がっかりするとは思わなかった、って。

昨日、書店で販促用のリーフレットが出ていた。思わずもらってしまった。
一日一日を読み切るのと、1冊を読むのでは、視点が変わってくるだろうから、1冊を読み切ってもらえるよう加筆修正が必要なのだろうけれど。あの一日一日の「場」は「一幕もの」のよう。とくに芝居を描く内容の本だからあまり手が加わりませんように・・・。

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by eastwind-335 | 2018-07-11 07:25 | Books | Trackback | Comments(0)

外国語修行か~

私は、背表紙がしっかりついている形状のものを手に取り、その中に存在する活字とは日常的に接するのですが、人さまに「読書」と言い切れる行為は非常に限られている、そんな日々を過ごしています。
ブログ書く暇があったら読書をしたらいいのだ、と思うのだけど、ブログを書くことは目覚ましのようなものだしなあ。
不思議なことに、あまりにも嫌なことがあった翌日、そのことを書こうと、実際、書き連ねていると、突然PCがフリーズしたり、なぜか突然タブがとんでしまって書いたものが無くなってしまったり!だから、このブログに書いてある文章は、パソコンの自主規制を潜り抜けたもの(笑)。

昨日も職場で「まー、あきれた」なることが起きましたが、そんなことを細かく書いたらまたフリーズしちゃいそう(笑)。

楽しいことだけなるべく書こう、と改めて思います。

さて、限られた中で斜め読みをした最近の1冊が青山南の『60歳からの外国語修行』(岩波新書)。
私が初めてドイツでドイツ語を勉強したときを思い出しましたよ!あの時は私は21歳だったけれど、まさに、青山さんが「NHKラジオ講座」で数か月学んでは挫折、というところも似てたし、第二外国語としてはドイツ語をとっていたけれど、ただ教室に行き、当てられたときだけどうにか答え、試験前に詰め込みで覚え(笑)試験場で吐き出し・・・。

ということで身についてないままで、当地に乗り込む、というところも一緒。
クラスでどうやって身動きしたか、まで一緒。

そしてその後もなんだかんだと習いに行ってしまったところも一緒。

読んでいて思ったのは「うわー、この人は還暦になってからでも大丈夫ですよ」と思わせる本を書いたのかもしれないけれど、私ったら20代にして60代の外国語習得技術しかなかったのか・・・と。
50代にもう1言語、買い物に行っても困らない程度、新聞の見出しぐらいはすらすら読んでわかる程度になるぐらいのレベルになりたいのだけどなー。
ひょっとしたら、50代にもう一言語を学ぼうと思っている私の場合「傘寿からの外国語修行」みたいなことになってしまうのかしら。
だって私ったら20代にしてすでに還暦レベルなんだもん(爆)。

それとこの本を読んで「ほほー」と思ったのが、彼がつけるスペイン語の単語の注。
昨夏、すっかり虜になってしまった「テンプラニーニョ」という種のワイン。そういうブドウから作られているのですけれど、「テンプラーノ」だと「早い」って意味なんですって。早いという言葉を覚えることができました(たぶん、実際にはブドウの種類を口にしてしまいそう)。

単語をそのまま飲み込むように頭に入れる人もいますけど、私は何かと結び付けて、つまりエピソード付きで身に着けることがほとんど。つまり「恥をかいて」覚えるようなもの。彼もそういうことが多かったようで、私はちょっぴり安心しました。

語学学校の人生劇場というか、マンウォッチングも、わかるー!って思いながら読みました。
GWに実家へ帰省したおり、最後に語学学校に行ったときの写真や、その時一緒だった人からもらった絵葉書を東京に持って帰ってきたあとでこの本を読んだので、特に私には印象深かった。本来のこの本の意図とは違う読み方かもしれませんが、この時期に出会えてよかった。うん。


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by eastwind-335 | 2018-05-24 07:17 | Books | Trackback | Comments(0)

「本」の定義

帰宅時、電車のドア上部に設置されているモニターをボーっと見ていたら、4月23日の「本の日(サン・ジョルディの日)」の紹介が流れました。
最後に「さて、ユネスコでは本は何ページからと定めているでしょう」というクイズが出た。

うーん、何ページなのかなあ?
20ページぐらいかなあ?と「絵本」や児童書を頭に置きながら思ったのですが・・・。

答えは表紙を含まないで49ページ以上の冊子をさすんですって。
それ以下の冊子は「小冊子」というのだそうですよ!

GWは休日出勤が2日もある!前半は休日出勤が2日もあって(とほ。仕方ない。そういうお仕事なので)、後半の連休で海辺の街に帰省し、両親の「断捨離」の手伝いをする予定です。
祖父に比べればずっと「上等」だと思うけれども、父はこの数年の間に「昔だったら億劫じゃなかったんだけどなあ」ということが増えたそうで、結局そこをフォローするのが母。父に加えて母も「持病」ができちゃったから、二人とも「もっといろいろできたんだけどなあ」と思うことが増えている様子。

私からすると「70代後半にしては平均はできているんじゃ?」と思うのですけれどねえ。まあ、私みたいな「凡庸」「上昇志向なし」なのが言っても説得力なし、なわけで・・・。
とはいえ、うちの両親は凡庸の親だから「ねばならない」は少ないし、代替というものをうまくみつけて、いまをささやかに楽しんでいるように見えるので、ホッとしています。

いまでも「できないこと」が多すぎる私なのに、70代になったら「もっとできなくなる」のかあ、と私が元気だったら突入するであろう生活を垣間見るのは勉強になる

思えば、母は50歳になったころ「字が下手になった」と嘆いていたことがある。
母は別に書道をならっていたわけではないのだけれどムスメの私がみても「バランスがよい」。気取りのない字だけど、おさまりがよいというか。更年期が始まっていたのはわかっていたので「ママ、思いこみすぎなんじゃ?」と応じていたのだけれど、いま、自分が母の年齢になった時に思う。

老眼で書くのが面倒になったんだろうなあ、と。このごろ、漢字や仮名を横へ書き連ねていくのは、なんだか手首や指先に「ムダ」が生じているような気がする(爆)。老眼を自覚してみると、私は気分が字に出やすいと自省していたのですが、落ち着いた気分の時にも思った通りの形の字を書くのに、ちょっとした意識が必要となった!
そんな時も母を思い出す。母が私が何かメモをとっている時に、「自分は横書きがヘタなの。あなた、上手ねえ」とチラと言ったこともあった。でも、私も横書きは苦手で、加えて言えば、実をいうと横書きに書いてある日本語を読むのもあんまり得意ではない。どうにも横書きというのは「解く」ためのものってイメージがある。

学校教育の置き土産なのでは?と思う。つまり、算数、理科、英語の「教科書」で横書きになじんだから。
苦手意識の強かった科目を思い出すのかなあ。

だから、小説を横書きにされちゃったら、たぶん私は楽しめない。
なにか「分析」しなくちゃ、とか「解かなくちゃ」と思ってしまうから。
もっといえば「正解」があるはずなのに、見つけられない私ってダメだなあーって思うというか・・・。
「合っている」「間違っている」と2極化されちゃいそうっていうか(笑)。
ところが、縦書きだと、どんなにむつかしい内容でも、なぜか「楽しんでいる」。私はこう思うんだけど・・・って姿は見えない著者に対して、心の中で頭の中で語り掛けている自分がいる。
言葉が遅かったにもかかわらず、2歳児のころから字が読めなくても新聞をわかった顔をしてめくっていた(らしい)私。幼稚園以来、本をよく読んでいたほうだと思いますが、あのころ、横書きといえば「絵本」ぐらいで、横書きの絵本は、私は文章よりも「絵」を楽しんでいたのかも。幼い私の記憶に「内容」までも残った「絵」と「字」があわさった本の多くは「縦書き」だったなあ。

さてさて、今度のGW明けにはパディントン展に行こうと前売り券を買ってきた。
家人と一緒に、と思って2枚買っておいた。1枚は図録付き前売り券。図録には、松岡享子さんによる、ボンドさんの未訳パディントン話が2話ほど収められているんだそうです。
昨年末からこの3月にかけて3冊の新しいパディントンの翻訳がWAVE出版から出た。ながらくパディントンの未訳本があるのは聞いていたのですが、福音館が一向にそのことに触れないのはなぜかなあ、とも思っていた。福音館書店という「こどもの本」の文化を作り上げてきた出版社ができない、となると、どこかの出版社に権利を買い取られちゃったかなあ~と。
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新しい翻訳者による新しい体裁の本3冊は買っただけになっている。1冊目を買った時に「え?表紙が赤?」と驚き、2冊目3冊目をまとめて買った日には「フランスじゃあるまいし3色旗の色だなんて」と思ったのですけれど、本棚の「イギリスの棚」に並べてみて気が付いた。ははーん、ユニオンジャックの色か!と。
ちらとページを開けたときに目にした文体は松岡さんのそれを彷彿させるものだった。ちょっとホッとした。しかし、となればなるほど、なんで松岡さんと田中琢治さんの訳じゃないのかなあ。なんで福音館から出なかったのかなあ、と大人の事情をいろいろと勘繰りたくなる。田中さんはカナダの大学の先生である、と以前福音館のサイトで読んだことがある。となると、本業がお忙しいのか。共訳っていうのは案外大変なものだと体験者から聞いたことがある。いろいろな事情があるのでしょう。

なにはともあれ、日本にパディントンを紹介してくれた福音館が主催の「パディントン展」で、ポンドさんの最後の2冊、つまりボンドさんの遺作を翻訳するのが松岡さんでよかった。
いつか、この2冊が「本」になって福音館書店から出版されますように。

GWは思ったほど休めないとはっきりしたけれど、パディントン展に行く前にWAVE出版から出た件の3冊を読まねば!うち2冊は21世紀になってから書かれたものだから、映画の「パディントン」に通じるものがあるみたいだし。あ、映画「パディントン2」も見に行けなかったから、これもブルーレイがでたら購入しなくちゃ。見ると、特典付きやらエディション違いやらあるらしい。どれがいいかなあ。

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by eastwind-335 | 2018-04-18 06:18 | Books | Trackback | Comments(0)

出版社がかわるパディントン

私は翻訳シリーズ物が好きで、一度面白かった場合は、買いそろえるようにしています。
ということで、我が家には同じ作者の本がずらずらあります。

もうすぐ、日本でも「パディントン」の映画第2弾が公開され、そこに、イギリス人らしい「笑い」を醸し出すヒュー・グラントが出る、と知り、どんなつくりになるのかなあ、と今から楽しみになっています。しかし、たぶん、映画館で見るのではなく、またもやBDになって買うのではなかろうか、と。

大人になってから、改めて『パディントン』シリーズを、まさに「大人買い」したのですが、松岡享子さんの翻訳が、そのうち、カナダに暮らす田中治さんという学者さんとの共訳になっていることに気づき、数年。
マイケル・ボンドさんの逝去の折にも、未訳のものがあるのは知っていましたが、出るとしたら福音館書店から出るのだと思っていました。

とーこーろーが!!!
WAVE出版から出るというじゃないですか!
正しくは「出た」か。

大人の事情があるのかもしれませんね。ボンドによるパディントンの小説の未訳本は、実は残り3冊だったから、本当は同じ出版社から出してほしかったけど。児童書っていうのは、信念にのっとった翻訳となるはずだから、ここで「訳の感じが変わる」となるのは・・・という思いがあるのです。ええ。

誰の日本語だからイヤだ、ではないのだけど、特定の人による「翻訳の日本語」によってその世界を作ってきたので、急に違う世界に連れていかれると、そこはパラレルワールドなんじゃないか、って思ってしまうわけです。私は。そんなことを文句つけるのであれば、児童書ぐらい原著を読め、と突っ込まれそうですけれど。

本屋で新しい訳者による、他出版社からの発売と知り、衝撃を受けたのですが、あえて、本屋では実物を見ないことにしました。
ポイントがたまっているので、今回は取り寄せをすることにしました。普段は、本は本屋で、なのですが、ためらっちゃいそうだから。

まあ、翻訳が途絶えるよりはずっといいんですけれどねー。ええ。
東京創元社のように、ボンドの「パンプルムース」シリーズを尻切れトンボで止めちゃうとか、早川書房のように、あと数冊のウェストレイクなり、アーロン・エルキンズの作品を長らく放置しているとか、翻訳じゃないけれど秋田書店のように「エロイカより愛をこめて」の文庫本化を止めちゃうとかねえー。

ハヤカワはカイガイノイヤラシイレンアイ小説から手を引けー!!!!と本当に思います。いや、カイガイノイヤラシイレンアイ小説だって「翻訳小説」の範疇でしょうけれど(ガイジンが作家だし)、でも、ハヤカワで出さなきゃならないのか?ってことなのです。意外性で売らざるを得ないってことにしても、することをきちんとしながら、でしょうが!!!(怒)。

閑話休題。

新訳を出す翻訳の方もご苦労があると思います。出版社が変わる時に今風の言葉遣いになってないといいなーと思いますが、それじゃ、コドモに受けないでしょうね。礼儀正しいクマ、の日本語より、ブラウン一家の言葉遣いが気になるのです・・・。その辺の家じゃないですよー、ちゃんとしたお宅のクマですからねー。
そして、出版社が変わってしまったこと!そのあたりの事情が新訳本のどこかに書いてあるのかしら?届いたら、最初にワタクシはあとがきから読んでしまいそう(笑)。

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by eastwind-335 | 2018-02-01 07:03 | Books | Trackback | Comments(0)

長い冬

毎年降雪の時期がある東京ですが、今年は、降雪後が非常に寒い毎日となっています。
夏の長雨、秋の天候のせいもあり、お正月が過ぎても「葉物」やダイコンなど季節の野菜がいっこうに安くならないねえ、と言っていたところの降雪。もうこの春まで野菜の値段はこれぐらいかな、と腹をくくって、毎晩献立を考えています。

年明け、私の周りでもアメリカからの帰国が、大降雪のために遅れてしまった人たちがいます。
ほんの数日の差で「楽勝」で帰宅できた人もいれば、「帰りたくても帰れない」と連絡をしてきた人も。もともと、アメリカはホワイトクリスマスになっていたそうで、留学先から連絡をしてくれた知人のお嬢さんは「ホストファミリーに、案外ホワイトクリスマスにならないのよ、と聞いてます」とのこと。
年明け早々のアメリカの豪雪、寒波のニュースを見たときに、ふと、『長い冬』を思い出しました。
ローラ・インガルス・ワイルダーの「小さな家」シリーズの1冊です。
私にとっては、小学校3年生の時のクリスマスプレゼントの1冊で、実家の押し入れにまだ入っているはずです。12月のある土曜日、新聞を広げると、岩波書店のクリスマスプレゼント向けの本の広告が目に付いたのです。あの頃、8時を過ぎて起きていても良いのは、「ローラのドラマ」を見るときだけ。福音館書店の本は1冊が高く、子供心に、親にセットを買ってください、とは言えなかったのだけど、岩波少年文庫だとセットでも安い、という計算を即座にした覚えがあります。
あの頃、土日に家に父がいるときは「寝貯め」する日だったので、静かにしておくべきだったのですが、がまんできず、まだ布団にいる両親に「ほしい」と新聞を見せてお願いしたのでした。
ところが両親はまず、親より先に新聞を見た、と私を叱り、本についても父が「小学3年生が中学生の本は読めないからダメ」といいました。あの頃、両親は社宅からの脱出を図っていたときで、海辺の街に土地を買う話を進めて家計を締めていたころ。だからあの頃はやっていた目を閉じる人形だの、モンチッチだのと社宅の子が持っていたものは「東風ちゃん、リカちゃんだってすぐに飽きたでしょ?」の一言であっさり却下。でも本は「おもちゃじゃない」んだから買ってもらえると思ったのに、「中学生になったら買う」と言われてしまったのです!

とはいえ、人形と同様、ふだんだったら、「そう、わかった」といったと思います。でも、どうしてもこの本(複数)はいま私のものにしたかった。そこで、「弟くんには、新しい本をいつも買ってあげるのに。私には図書館で借りなさいっていう。どうして私が本が欲しいと言ったらだめなの?」と泣いてしまったのでした。

父はそれほど読書好きではないので、「中学生の本はわからないはずだ」の一点張りで、最後には「どうして普通の子のようなもので我慢できないのか」と言いましたし、母は「そんな頼み方、ありますか!」と私の口答えを叱り・・・。弟は「またお姉ちゃん、おこられてる」というので、また私が号泣し・・・。

結果としては、あとから母が父に口添えをしてくれたようで、その年のクリスマスプレゼントとしてセットを買ってくれました。まだ10歳になったぐらいの子には難しかったかもしれませんが、私にはそうでもありませんでした。なんでも器用によくできる兄弟がいる、思ったことを口にしては気まずい思いをするローラはまるで自分のようでした。「とうさん」じゃなく「父ちゃん」という翻訳に戸惑いがありましたが、ドラマで見るローラの家の話とは違うことが次々と描かれていました。自然災害や病によって家族に事件が起きる。それをどうやって乗り切るのか。私にできることは何か。私が今なお就業を続けているのは、実をいうと、この時の読書がきっかけだったのでした。私は小学生の時に将来何なりたいか、という具体的な夢はなかったのですが、私にはアルマンゾみたいな人は出てこないはずだから、絶対に働き続けなくちゃいけない。何がいいんだろうか。

以来、高校生になるぐらいまでの私の悩みは「手に職をつけるには不器用すぎる自分」でした。

一方、これらの本をテレビドラマシリーズよりも先に読んでしまったため、実をいうと、岩波少年文庫版のドラマ化部分は「えー、ちがうじゃん、これ」と見なくなってしまったのでした(笑)。思えば、その頃から文字で得たイメージを愛しすぎるところがあったのでしょうね。でも、一人の俳優が交代することなく成長をみせながら演じていたというのはすごかった。

さて、その少年文庫本ですが、私は鈴木哲子版を読み育ちました。ローラが書いた自分自身のシリーズの最後の1冊は、私が高校生になってからようやく少年文庫版に翻訳がでました。それが「ローラの旅日記」で、谷口由美子さんが訳していました(今入手できる少年文庫版は鈴木訳はなくすべて谷口訳なのだそう)。この本には、結婚しました、めでたしめでたし、ではなく、生まれて数か月の子を一瞬にして失うローラたちの姿であったり、病気で足がマヒするアルマンゾの姿が描かれていました。同じころ、私は父が(のちに持病となる)腎臓疾患を発症して入院・退院をする、という出来事を体験していました。その頃も相変わらず「きっと独身だろうな、私」と思っていましたが、結婚したとしても、夫に何かあれば私が働かなくちゃいけないんだ、と。

もちろんローラの本で「パッチワーク」なるものを知ったり、いろいろとおいしそうな食事(ルバーブのジャム)を知ったりもしたのですが、一番影響を受けたのは「一生働く」ってこと。一生働いていてもイヤミを言われない職場を見つけよう!

そして今に至るわけです。

久しぶりに『長い冬』を思い出していた時に、ローラの幻の原稿が翻訳され、それを記念しての何種類かの講演会があると知りました。うち一つに申し込みました。まだ数週間先のことですが、楽しみです。
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by eastwind-335 | 2018-01-27 12:17 | Books | Trackback | Comments(0)

東風のささやかな毎日のささやかな記録


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