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Kunelが更年期世代のOliveになったきた

賛否両論あった新生Kunel。とりあえず1年間は買おう、と思い2か月に一度、発売日に購入をしています。もうすぐ1年。

前のKunelが醸し出す優しい雰囲気、よく練られた内容、国内外問わずにいつか行ってみたいなと思わせる自然な感じがとっても好きだっただけに、当初、新生Kunelは戸惑いが大きかった。
それまでのものをバッサリ斬り落としてしまって、無理して「今」を追い求める50代のananって感じ。急に体制が決まったのかな?って感じぐらい、斬新というよりもクーデターっぽい雑な感じというか・・・。
一般に、雑誌が読み手を選ぶ(つまり編集方向性が明確)というよりも、読み手が買ってくれる雑誌を売る(つまり編集より広告効果が大切)という場合が多い。特に、年代別女性雑誌にそれが顕著。

ところが、前のKunelはどちらかといえば前者だった。だから、商品ではなく、エピソードのあるモノであったりヒトであったり場所をきちんと追いかけた内容だった。そこへ行ったとしても会えない、または写真と全く同じものは買えない、そんな感じ。

新生のKunelはどうなんだろう。
度肝を抜いたのは、「その辺のガイコクジンのおばさん」が表紙になっていたから!
再開1号以来途切れることのない「フランス女性の街角スナップ」。Oliveの名物コーナーが20余年の時を経て再び復活!となったと私は位置付けてます。ただし、読み手が年を取ったように、映ってる人も、かつてのオリーブ少女が憧れた「リセエンヌ」の成れの果て。
えー?どうして日本の50代じゃなくてパリの50代なわけ?と私は純粋にびっくりしちゃった第一号。Kunelのよいところは、どこかの国にイメージを固定しなかったこと、もっといえば、そうそう簡単に行けないところへ、だったわけです。パリかー、日本から乗り換えなしで行けるところじゃん、なんだかなあ、ってところかな。
これだったら他の雑誌でも同じスナップが撮れるんだけどなあ、ってがっかりしたというか。
ところが、新生を銘打った以上、それまでのKunelではテーマ的に取り上げられなかっただろうことを第3号で特集をした。それが「離婚」特集。もちろん、いきなりではない。フランス人女性のスナップに「リセエンヌの恋愛話のその後」はこんな感じだったんですよーってうっすら盛り込み、第3号で真打として「日本人女性たちの離婚」を特集!
離婚等、50代になれば当事者になるか、または身の回りに一人は体験したことがあるだろうこと。すっかり優等生向け雑誌になってしまった「クロワッサン」では扱えないテーマをこうもどうどうと扱おうとは!
告白内容的には、年代別雑誌で時折小さく特集されていたものと変わりないんですけど、すっかり丸くなったマガジンハウスの雑誌の中では異色だった。
どこへ向かう?と興味本位で2か月に一度が楽しみになってきた。
思えば、50代以上向けなんだから、「更年期」なわけで、体と心の声を聞く年代向けなわけで、「ねばならない」って必要はないわけですよね。60代という還暦(子供に帰る)に向けて考えれば、50代って10代のころの「きまま」さに似たものを持ち合わせているんじゃないかな?と思うこの頃。10代は生理を体験して、ジュニア時代とは違うからだの変化に戸惑う「恐るべき子供たち」ですが、50代は閉経を体験して、これまたこれまでと違う体の変化にすんごく戸惑う「恐るべき元子供たち」なわけです。急に気分が上下しちゃうぐらい戸惑う年齢に合わせたように、雑誌内容も「え?」なことになっているのかも、と思うようになったのです。

ということで、私はKunelを「更年期雑誌」と命名することにしました!
更年期雑誌と思えばいろんなことが大目に見れる。

雑誌のミューズは一世を風靡した(ことになっている)日本人女性だ、と言い切った第4号で、私も慣れてきたのかもしれないけど。
年代別雑誌では「娘世代と同じような恰好をどうやって取り込むか」がテーマで、「美魔女」なんて言葉まで作って、いっぱいライトを当てた不自然な写真を載せてる。「自然派です」という感じもない。そんななかで、そうか、彼女なのか、という驚き(疑問にちかい驚き)。
80年代のマガジンハウス社(あの頃は平凡出版だったけど)のananのモデルだった人たちの今と今の装いを特集した号を読んだとき、必ずしも、モデルさんとはいえ体型維持が難しかった人がいたんだなあ、とか、今なりのステキさがあるけれど、(まだ30代の服を着ようと必死になっている)今の50歳代向け雑誌では使ってもらえないだろうなあ、と思ったこともあった。1回こっきりで終わっちゃってがっかり。

その点、今号は「かつてのオリーブ」を彷彿させる作りだった。日本では買えない素敵なもの、を全面に。日本で買えるけど、そこいらでは買えないものをその次に。伊東屋にあこがれた10代の頃を思い出す、そんな紙面構成だった。あとは、表紙買いをしやすい日本人女性が表紙より中身、と考えられるかどうか、だな(笑)。私はカバーモデル(もう50過ぎたら「カ婆(かばあ)」と言ってもいいような気もするけれど)システムはあんまり好きでないので、本当はねえー、なんですけどねー。

編集側も試行錯誤しているんだろうと思います。サッカーに置き換えれば、小林麻美をフォワードに、フランス女性たちをトップ下に、そしてコウケンテツ・松浦弥太郎をダブルボランチにして、ってところでしょうかね。この雑誌の弱点はGKの存在感がないところ。監督(編集長)はベテランだけど、作戦の読みが当たってるのか、観客である私は戸惑う。
少なくとも、21世紀のマガジンハウスにはない雑誌であることは確か。平凡出版時代のとんがりをこの雑誌が持っているとは思います。
日常が「うー。このままじゃ息詰まる!」と思いながら仕事をしている身ですので、私は本当は「あー、素敵!見て気分転換ができたわ~」と思える雑誌が精神衛生上は良いのだとは思うのです。でも!更年期一歩手前まで来ていることは自覚してますし、自分の体がいつまでも30代だの40代初めみたいな「ピチピチな感じ」じゃ恐ろしいので(SFじゃあるまいし)、もうしばらく2か月に一度、この雑誌のもつ微妙な歪みに対して今回はどんなツッコミができるんだろう?と思いながらこの雑誌を買うのではなかろうか、と思います。

ところで、最近の各社の50代雑誌って「息子世代」の「芸能人」だの「スポーツ選手」を嬉々として取り上げていて、個人的にどーしちゃったんだろう!って思ってるところ。お願いだから50代のオリーブ、もとい新生Kunelだけはそういうのはやめてほしいなあ。
どうせだったら素敵な60代女性を取り上げてほしい!


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by eastwind-335 | 2016-12-14 06:10 | Books | Trackback | Comments(0)

本を読み返す

20代の半ばから終わりにかけて、子供のころに読んだ欧米の児童文学の完訳版とその「続編」を読んでいた時期があります。
思い返すと、今みたいに、やりがいがありつつも、ストレートにコトが運ばないって類のプロジェクトをしていたときでした。

『続若草物語』『続あしながおじさん』『続赤毛のアン』これらはオリジナルを書いた作家が続編も書いたもの。
さらに、『続ハイジ』にあたる小説。これはシュピーリではない別の作家によるもの。めでたくハイジとぺーターは結婚してからのおはなし。
それにあのころ、アメリカでどういうわけか『ハイジ』の後日談を第一次世界大戦を背景に映画化していて、青年になったペーターと大人になりかかっているハイジとの恋愛ドラマのような、その映画の小説版、なんかも古本屋で見つけて読んだ。
チャーリー・シーンがペーターって、あなた・・・。ペーターってイタリア系スイス人だったのかな(爆)。

本編よりも続編のほうがピンときたのが先に上げたオリジナル作家の書く続編もの。
作家としての成長と、読み手である私の成長がピッタリあったのかな、本当にのめりこむように読みました。

そのうちの何冊かは手元に残しておいてあります。というか、おいたのを昨年の引っ越しの時に思い出したのだけど、1年経って、日々のあわただしさにかまけて再び忘れていた。そして、今朝、3時半ごろ一度目が醒めてしまったときに本棚を眺めていて、その1冊である「続あしながおじさん」が目についたのでした。読み始めてまた眠たくなりましたので、途中になっていますが、数ページをめくっただけで、自分自身でもびっくりするようなことが。
20年前に読んだのでストーリーに目新しさはないものの、当時とは違うところに躓きとか気づきを覚えます。あれから20年経って、私は離職せず、職場も変わらず、仕事も相変わらずなのですが、違う見方をできるようになったのを喜ぶべきか、どうなのか。

児童小説は子育てなどを通して3度は読むと言います。子ナシでも手元においておくとそういうチャンスがめぐってくるんだな、と。これは紙の本でないとできないことだと思うのだけど。だって背表紙が見えないとあったことだって気が付かないでしょう?




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by eastwind-335 | 2016-12-09 08:14 | Books | Trackback | Comments(0)

全部見てしまうのも・・・

私は紀行文というジャンルの本を読むのも好きです。
(そんなにたくさん読んだわけではありませんが)

しかし、以前ほどガイドブックはあまり手に取らなくなりました。もともと「るるぶ」のような「お食事・お土産」写真ミッチリ系は手にすることがなかったのですが(なんか、目が疲れるときも・・・笑)、女子向けのそれは嫌いじゃなかったのに。でも、思えば、この女子向けガイドブックも、こんなところまで取り上げてくれて!みたいな国や地域別になりつつあり、軽い驚きというか・・・。そして「女子向け」と銘打つだけあって、なんか多くの写真が「かわいい」というか「ステキ」な感じすぎて。

せっかくお金を払って、時間を作って、休暇を申請して出かけたさきで、自分が見つけた「おっ!」ではなく、誰かにみつけてもらった「おっ!」ばかりを追体験するのはもったいない、というセコい性分だからっていうのもあるかも(笑)。そして、その「誰かがみつけた「おっ!」」が素敵な写真で納まっているだけに、あー、きっとみんなここに行っちゃうんだろうな、ともページをめくりながら思うわけです。外国に在住している方や、旅行好きな方のブログでも同じお店や商品を目にすることはありますが、そこには「ストーリー」がある。でも、ライターさんがどうやってこの店を見つけたかはガイドブックではわかりません。ブログはある意味で「紀行文」のジャンルに私のなかではなっているのかもしれません。地図とその地域の特産品のうんちくが書いてあって、その地域のどの地区で買えるか、程度の情報だけのほうが、私は旅がしやすいのです。そういう意味で、各国観光局が出していた観光案内っていうのは、本当に私には便利でした。何か国ものガイドブックを持つよりは1台のipadだの、スマホの地図検索機能だのが楽で便利と私の同僚たちは言いますが、もっと年をとって体力と判断力が今以上に欠けるようになるまで、目的地を音声に吹き込んでボタンを押したら、乗る交通手段からやってくる交通手段の時間はもちろん、歩く道を音声で導いてもらうことは避けたいと思ってます。
「全体を見て自分の欲しいもの・できるものを選択する能力」、そのことのトレーニングのために私は海外旅行に出ているような気もしています。

この何年か、私はホタテ道に関する本買っています。10月は誕生月でポイント倍出しとなったので、2冊も買いました。1冊はもう1年近く前に出たのを見逃していた紀行文、もう1冊は10月の新刊のガイドブックです。
ホタテ道を歩くことは私の夢です。しかし、仕事をしながらとなるはずなので、何年もかけての挑戦となるでしょう。1年目の到達地までは決めてあります!なので、今回のホタテ紀行本は1年目の到達地までしかページをめくりませんでした。すごく面白かった。70歳になる元大学教員が、日記をもとに書いたと思われる紀行文です。
3つの点で、自分に似たところのある人だなあ、と思う本でした。
その1.一人旅を厭わないこと
これは、彼女がもともと一人旅の体質というわけではなさそうですが、一人である、ということを受け入れた心構えが要所要所に見られて、「わかりまーす!」と心の中で相槌をうちました。
その2.旅のノートのこと。
私も旅のノートをつけるのだけど、夜になるとすぐ眠くなり、ノートを書こうと思っても途中ですぐに数日の遅れが出てしまう。この方も正直にそのことを記していて、とても親近感を覚えました。
その3.旅先での感性
この人は若いころにフランスに留学したことがあるそうで、海外に出るとそのときの年齢に気持ちが戻るとか。私も旅をしていると時折、もうこんな年齢なのに、初めてドイツへ行ったときの大学生の気分で「やっちゃう」ことがある。

もう1冊は新刊で、熊野古道とホタテ道が「姉妹協定」を結んだことによってできたガイドブック。
熊野古道にかかわって定年を迎えた方がライターさんたちと実際にホタテ道を歩く本でもあるのですが・・・。
ビジュアルガイドだから仕方ないけど、グルメだのかわいいお土産だの、たぶん宿泊地として多くの人が選択する街の素敵なお宿が数ページごとに入るとちょっと考えてしまう。
いろんな歩き方があっていい、と思いつつも、そういうものなのかなあ、って。
ライターさんを含め4人で踏破したはずのガイドブックですが、現地のコーディネータに紹介されたホテルに泊まった、ということが書いてあってちょっと残念。もちろん、このコーディネータのおかげで素敵なビジュアルガイドになっているし、お金があれば素敵な踏破旅行になる、っていうのもわからなくもないのだけれど。
人によってこの道の歩き方は様々でいいと思うけれど。でも、この道のなりたちから考えると、こんな「軽くて明るいビジュアルガイドでいいのかな?」って思ったわけです。それも「熊野古道」と絡めた本だっていうのに!って。

私は熊野古道はハイキングコースではなく、古人の信仰の道が基層にあると思っています。ホタテ道も一緒です。だから、行くチャンスに悩んでいるのです。その道を歩くために、いろんなことを「空っぽ」にして行きたいのです。「お仕事のおついで」に行くのではなく、そのためにだけ行きたいというか。
(でも実際には、絶対に歩き終わった帰りに、体調を整えるために<帰国後すぐに仕事に行けるようにするため、とも言えます>寄る都市は「お仕事のネタ」を見つけられるところ、にしちゃうんでしょうけれど)

世界遺産という制度ができて、文化財の商業化が一気に進んでしまった感があります。熊野古道も多くの人に知られるようになった反面、近寄りがたさのなかでそこに挑戦するという意気込みとかが無くなってきた感じも。

ホタテ道もそうなっていくのでしょうか。

私が最初にこの道を知ったのは、NHKのドキュメンタリーで、でした。カトリック青年の年がコンポステーラで行われた年に、日本から参加した10代のカトリック信者たちがこの道をどう歩いたか、を追ったものです。若き信者たちは、それぞれに悩みがあり、特に体の弱い女性信者は自分がそれを「全う」できるのかを案じており、それがドキュメンタリーの柱にもなっていました。

私は何かを「全うした」ことはありません。
だから、なおさら、この少女の思いはズシンと直球で私の胸に放り込まれ今に至ります。
やめたこと、期限がきて「終わった」ことははあっても「全う」したことはありません。終わると全うするは違う、と私の本能がいつも訴えます。だから、一度でいいから「全うした」という思いを抱いてみたいと思っています。
もちろん、全うのなかで(現世的な)楽しみを見出すことは否定しない。たぶん、私だって、生涯の終わりに、ひとりでこっそり手に取りながら「あの時、こんなことを考えたわね」と思う記憶の手づるがほしいと思うから、私の感性にあったものを見つけては買ってしまうでしょう。おいしいものを食べるでしょう。疲れたと言って素敵なホテルに泊まることでしょう(間違いなく!)。
でも、それをガイドブックで教わっておくのではなく、現地についてから「お、ここは!」と選び取りたいのです。

その地と私の内心との間の、言葉では言い表せない「何かの往来」を感じたいというか。

私は旅をするときに一番最初にワクワクするのは、それまで二次元の情報だった文字や地図が三次元として目の前に体現されている時です。「来た!」という気持ちになります。

だから、あんまり視覚的情報としてのビジュアルブックは見たくないのかもしれません。

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by eastwind-335 | 2016-11-01 06:41 | Books | Trackback | Comments(0)

読書の秋

ノーベル文学賞にボブ・ディラン!と一報が入った時、家人と二人で「おおおー」とその意外性に驚きました。
案外貰わないって言い出すかも・・・なんて思ってもいたのですが、いまのところ、そういう発言はナシの様子。
本日(14日)モルゲンターク新聞夕刊の一面の組み方になんとも違和感が。熊本地震から半年、ということなのだから、今日の様子を1面のトップにすべきだと思うのだけど、電通に労働局立ち入り記事がトップ。そして、なんとも中途半端なのが、次の記事。ボブ・ディランとノーベル文学賞をめぐる13日のアメリカの様子。発表の日の夜のコンサートの様子を小見出しで紹介しているのですが、「本人コンサート、前半では触れず」って。

コンサートの後半では彼は何か言ったのでしょうか?(時事通信情報では何も言わずに歌って終わったとのこと)

記事の入稿の時間の問題もあるのでしょうけれど、なんともねえ~。この中途半端さが現在のモルゲンターク新聞の足りないところな気がする。まあ、あちらからすれば「電子版を(お金を払って)読んでください」なのでしょうけれど。紙媒体読者はいまやオマケ扱いなのかな?

そして、ノーベル委員会自体がまだボブ・ディランと連絡がとれていないんだそう!「寝てる」ですって。
いいぞー、ボブ!委員会もヒヤヒヤでしょうね。
いらないとか言い出したら・・・。賞金は来年に持ち越しでしょうか?

さてさて、私も読書の秋というか、仕事がひと段落したので、あれこれ本を読んでいます。
読み終わったのは『キンダートランスポート』(成文堂)、『たいした問題じゃないがーイギリス・コラム傑作選』(岩波文庫)、『女官』(講談社学術文庫)、『ダーウィン家の人々』(岩波現代文庫)。
今読んでいるのが『キンダートランスポートの少女』(未来社)と『サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼』(傳書房)。前者は通勤時間に、後者は家で。
これから読む予定で購入済なのが『走れ、走って逃げろ』(岩波少年文庫)『愛されたもの』(岩波文庫)『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』(夏目書房新社)、『英文快読術』(岩波文庫)。
『愛されたもの』は実は『お葬式』というタイトルの光文社古典文庫版も持っているのですが、そちらの訳より岩波版のほうが読みやすそうな?2度目だからあらすじがわかっているので読みやすいのか?
『サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼』は70歳になってから巡礼に出た筑波大学女性教授の話。すごく参考になりますが、やっぱりフランス語ができないとダメなのかも・・・。
翻訳文学ばっかり読んでますね~。でもなんだか「日本語の小説」を読むのは、なんだか気が乗らないのです。
たぶん、日本を舞台にした小説だと、あまりに日常と比較して読んでしまい、その「絵空事」のような描き方に軽く嫉妬しちゃうのかも~(笑)。お金をもらうっていうのは、そんなコトじゃできないですってばー、みたいな。

ムラカミハルキの小説ものめりこめないのは「あんな(自分好きな)オトコに一所懸命なっちゃだめじゃーん(笑)。落ち着こうよ!」って気分になるからかも。
この気分、高3の古典の時間の『源氏物語』でも感じましたよ~。「これは男のロマンだ!色んなことがこれでわかるぞ」とまるで手引書のような言い方で説明を始めた国語教師に対して「このクラスの半分は女子なんですけどー」とつぶやいたワタクシ(ほら、不良だったもんで・・・)。本当に『源氏』は苦痛で「こんなマザ&ロリコンに夢中になるのか、女御たちよー!」と登場人物の女性たちに呆れて、早く別の作品にならないかな~と授業中、ずっと願っていた(先生は男子生徒に古典を学んでほしくていったのだろうけど)。
現国は先生の好みであまり教科書を使わなかったのだけど、それでも、高3の時に絶対に取り上げないといけないらしい教材がある。現国は『舞姫』。「エリス、目を覚ませー!」と思いながら読んだことなんかもこの時期になると思い出します。

明日はおうちにいる一日。何か読み終わるといいなあ~。

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by eastwind-335 | 2016-10-14 23:10 | Books | Trackback | Comments(0)

読書感想文の手引きがあるの?!

3週間ほど旅行に行くので8月は一か月新聞を止めました。
9月1日から配達再開をお願いしたはずだったのに、10日以上来ない。だから、10月からなのかしら、とおもったら中旬からいきなりポスティングが始まりました。モルゲンターク新聞がもうすぐ集金にくるはずだけど、日割りにしてくれるのかしら?

さてさて、そういうわけで先週から通勤時間に新聞を読む毎日も再開となりました~。

そして一昨日だったか、びっくりする記事に遭遇しました~。
9月初めに「読書感想文」の書き方マニュアルがあるという記事が紹介されたらしく、それに対する反応の記事でした。

びっくりした~!いや、数年前に、感想文の書き方のマニュアルが世間に流布しているとは知っていたけれど。
(すでに私が子供のころの学習百科事典にもあって、それに沿って書いて提出したら学校代表になった、と同級生が証言・笑)
マニュアルがないと子供たちは書けないって教育関係者が肯定的にしているのもびっくり。
もっとびっくりだったのは、保護者なのかは不明ながら、私と同世代の人が「読書感想文を課すこと自体が問題」って意見を寄せていたこと。

いや、第三者に自分の気持ちを伝えるのが史上最悪なほどヘタクソな若者やその若者予備軍(小中学生)を持つ親に言いたい。
読後感を自分の言葉で書くことは大切なんだから、読書感想文の宿題は存在意義があるのだ!と。

みんな同じ感想になるわけないのだから。コトバで人とつながろうよ、と声を大にして言いたいです
ポケモンGOで呆けまくってる日本人の脳を救うのは読書しかない!と思いますよー。

しかし、感想文を「うまく書かそう」とするのはどうなんだか?それもマニュアルに従って。

私だって、感想文を書くのは本当に「面倒」だった。だって、人と違うことを書いたら親に連絡が行くこともあったし(小学生の時)、本屋に並ぶ読書感想文指定の金色のシールを見るだけで吐き気がしそうになったこともあるし(小学生の時)、なんで小学生向けの本を中学生で読み直して感想を書いちゃいけないのかと思ったこともあるし(中学生の時)、一番の面倒は、指定外の本で感想文を書いたら、県の読書コンクールに出すからと国語教師がつきっきりでここが悪い、あそこがよくないと指摘され、書き直してくるように、と(中3の時)。
好きな本で、思ったことを思った通りに書いたのに、「コンクール向き」の文章にしろって?!「精神的ツッパリ」だった私。自分を否定されるような気がして、書き直さなくてはならないのだったら選ばないでくれ、と言ったために職員室では大説教をくらい・・・。単なる夏休みの宿題がとんでもないことになってしまった。
結果として、私は自分を捨て、教師(学年の異なる国語の先生)が言った通りに文章を直し、清書を黙って提出しました。だって、一言いえば3人の教師が、それに言い返せば6人の先生が、さらにふてくされたら学年全員の先生(12人)があれこれ言い出し・・・。めんどーくさかったからです。特にある教師が「内申書にだって有利になるのに」と言ったときに、心底、自分の気持ちをこういう教師たちに言うのが面倒になった。
私は本からして選びに選んで、自分を晒して感想を書いた。でもそれは受験のためじゃない。
これからのために一歩踏み込んだ文章を今一度考えてみようって言ってくれたら指導もちゃんと受けたかもしれないけれど、そういう目先のことだけであればこっちがマジになる必要はない。ということで、教師が言った通りにメモを取り、その通りに書き直して清書しました。
その文章からは、当初私が本に抱いた興奮が消えて、つまらない文章になっています。教員もそこには気づいたようで「もっと自分の思う通りに書いていいのよ」と言ってきましたが、精神的ツッパリだったワタクシは「てめえで始末をつけろってんだ」(別人来臨中)な気分に。

そして、高校3年間は幸か不幸か読書感想文の宿題が一度もなかった(だいたい、作文も論評もなかったなあ)。小論文は「推薦入学」の人(つまり「良くできる人たち」)が塾で習ったりしていたようだけれど、一般入試以外に大学進学の方法がない前世紀の80年代の凡才たちには縁がなかった。

それでも、大学に入って、レポートを書いて単位を貰ったし、卒業論文も書いた。
仕事を始めてからもそう。いまでは若い人のレポートの添削もすることがある。
でも、こうやって書くんですよ~って教わったことはない。みんなで「どうやって書けるようになったんだろうね?」と不思議がっている私たち(汗)。

しいて言えば、私の場合は、高校生の時に読んだ梅棹忠夫の『知的生産の技術』が、今思うとマニュアルだったのかも~。この本を手に取ったのは、私が人類学に関心があったから。この本を読んだ後「大学生になれたら私もこうやって勉強するんだ!」ってちょっと先のことを知ったワクワク感がしばらく私を包んだのを覚えています。
いまも仕事のレポートを作成するときはカードを取る私。
パソコンに入力するよりも手書きのほうが頭の中で直接整理できる気がします。パソコンは「入力した」ことに手が満足するだけなのです。私が満足するのではない。そんな気がするのです。
そのテーマが自分のものになっているかどうかは、参考資料を写す際の「誤字」率でわかる。
そういうようなちょっとしたことも自分自身のために大切なチェックポイント。

話がそれてしまったけれど、感想文の宿題は大切です。下手でもいい、巧ければなお結構ってぐらいで、生徒を指導することが教師にできないのは、いったい誰のせいなんだろう?
読んだだけではだめ。自分の言葉でその想いを綴れないと自分よがりになる。文章は、たくさんの本を読み、その感想と、その感想が出てきた背景を自分の文章で書き、さらに、いいなあと思う文章を書き写して(そして本のタイトルとページと出版社ぐらいメモをつけて)いればそのうちうまくなる。絶対に。

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by eastwind-335 | 2016-09-25 15:28 | Books | Trackback | Comments(2)

売れるための注

私は翻訳小説には注がついていてよいと思ってます。
というか、つけておくべきではないのかな?って。

いまはインターネットでなんでも調べられる時代ですけど。スマホ片手に紙媒体を読むわけじゃないですよね、フツーは。
文中が無理ならば、最後にまとめてでもいいし、訳者あとがきの中ででもいい。

その思いを強くして読んだのが、これ。最近、少しずつ増えているドイツのミステリー。
シーラッハのような意識高い系の「本格派ミステリー」じゃなくて、もっとコージーな感じのもの。
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日ごろ、意識が低く地上に穴掘ってるような私でも読める!そんなタイプのミステリーです(なだけに、ドイツを知ってもらいたいと日ごろがんばっている意識高い系の書評家のみなさんは、なぜかなのかやっぱりなのか、とにかく全くもってこの本に触れてない)。
ドイツ南部の警察が舞台のミステリー小説。

もう最初っから「プッ」となっちゃいましたよ。ええ。
たまたま、私がこれまでの何度かの旅行の間に「あ?!」みたいにうすうす感じてた、というようなコトが盛りだくさんなミステリーだからです。
なんといっても、1ページ目からケーゼシュペッェレなんて出てきちゃって(笑)。ここには( )でドイツ南部の伝統的パスタ、と説明がついていた。ラムたんがすきなシュペッェレだ、と私は読み替え(笑)(注1)。
67ページのイケアのカタログ云々の話。ああー、まだ「日本でも」行ったことがないイケア(注2)!
128ページから129ページにかけての「ピルチャー」(注3)の小説やらテレビドラマやらについてのクルフティンガーの「男性・夫としての見解」。いきなりピルチャーと出てきたとき「えーっと、ロザリンド・ピルチャーのことよね?」と。
ピルチャーは私も好きな作家だし、ドイツへ行けばほぼ毎回彼女の作品をベースにしたテレビ映画を見てるし(最近ではつい2週間前に見たばかり!)。あ、ピルチャーのテレビ映画のために渡独しているわけではありません。結構な頻度でZDFがピルチャー・アワーを放送してるってことで。
(ちなみに、私のピルチャー考はこちら
あと、ドイツの警察ドラマの金字塔(?)Tatort「事件現場」を揶揄る文章があったり。これにも( )でドイツで人気の刑事ドラマという説明があった。
Tatortも都市別シリーズがある(注4)。このクルフティンガーシリーズもご当地小説。そのあたりをひっかけた内容じゃなかろうか、と思うのは私だけでしょうか?
日本でも最近は「方言ブーム」なわけですが、あとがきによれば、実はこのクルフティンガー・シリーズは読み手を考えてほぼ全文が標準語で書かれてるそうですけど、ある登場人物のみ「方言丸出し」にしてるらしい。さらに、数年前に方言でこのシリーズの1作がドラマ化され、ほとんどの人が聞き取れなかったのに評判だったそうです。ミステリーチャンネルで字幕つけて放送してくれないかなあ~。
クルフティンガーがドイツ語をつかわない(つまり英語の)言い方をする「若い人」にイラっとくるシーンが何度も出てくるのですが、die Prinzenの「Be cool speak Deutsch」という歌を思い出しちゃったし(注5)。

等々、ゆるい系の私には面白いのですが、一つ気になることが・・・。
小説のなかにどんだけ出てくるのか!と書き出しそうになった「地名」。ケルンとかミュンヘンとかだったら、私も頭の中のドイツ地図に置ける。アルゴイ地方なんてミュンヘンから考えたらどっちの方向なのかわかりませーん。
私の手帳はドイツ製なので(伊東屋の取り扱いですが)ドイツの地図が載ってます。それを見たらわかるかな?と思いきや、ものすごい大都市と州の区分けがわかるだけ。アルゴイ、どこよぉ~(怒)。それぐらい「レアな地(方)名」なわけですよ~。
昔、翻訳小説がキライという人の多くは、登場人物の名前がわからなくなって、折り返しをなんども見直さなければならいのが面倒と言われていました。ドイツ語の小説の場合、苗字だけでも長かったりする。に加えていきなり「知らない」地名があれこれでてきたりして、処置なしだなんて。なんで翻訳出したんだろう、って面白い推理小説なだけに、翻訳で読めて嬉しい反面、疑問がいっぱい。
翻訳家さんはそういうことをハヤカワと打ち合わせなかったんでしょうかね?
ネットがあるんだから自分で調べろ、かもしれないけど、1作目ぐらいは、売るための努力として地図をつけてもいいと思うのだけど。それにwikiってみましたけど、あれだけ?みたいな感じだし・・・。

本国ではこの本は7冊目まで出ているそうで、ハヤカワがいつもの気まぐれを起こさなければ翻訳がこの後も出るのではないかと思うのです(まあ、ハヤカワも最近はロマンス小説と寒い寒い北欧の警察物ばっかに全力を尽くしているようで不安がありますけど)。

せめて2冊目からは・・・。地図、おねがいしまーす!

ってここに書いても翻訳関係の方が読むとは思えないけれど、実にもったいない。でも面白いミステリーです。
あー、ドラマもみてみたい。吹き替えじゃなくて字幕でね!残りの作品も早く翻訳されますように~。




私なりの注(長いのでおりたたみます)
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by eastwind-335 | 2016-09-08 19:54 | Books | Trackback | Comments(2)

つかいまわし?

ワタクシの腕痛、まだまだ治りません。
もともと冷房が苦手なところに、この肩・腕痛のために、ますます苦手なものに。

夏は暑いから夏なんだー!

職場はキンキンに冷房が好きでない人の方が多くて(男性でも)、助かっているのです。
しかし、家に帰ると「蒸し暑いと調子が悪い」という家人が待っている。
もう冷房戦争ですよー。家人に室温を譲ることにして私はせっせとお風呂に入っています。
この数か月、夜は疲れてバタンキュー。そんな忙しさにかまけた生活は朝シャワー生活を招き・・・。

久しぶりのお風呂生活はカラスの行水みたいな感じで(汗)。
最近ようやくゆっくり湯船に浸かれるようになりました。となると、年齢別雑誌という「風呂の友」が必要になる。
ということで、昨日、本屋へ寄りました。
50歳前後向けを銘打っている雑誌を1冊買いました。
どうもカバーモデルが変わるらしい。

新しいカバーモデルの紹介が目次にありました。
びっくり。
ちょっと前まで光文社の雑誌で40代向け雑誌のカバーモデルをやっていた人。

なんか、ねえ。
ほかにいないのかな?
いや、彼女がどうこうではなく、結局年齢別雑誌は「光文社文化」に乗っ取られるのか?!と。

Ku:nelも新しい編集長になってリニューアルしたら、発行間隔は隔月のままだけど、中身は、なんかなあ、って感じになってしまって。
とりあえず1年間は買うけど、前みたいに「待ち遠しい」って感じがしない。
巧く言えないけど、10代終わりのころのオリーブ少女の恰好を50歳でやっちゃってる、って感じ。
「つるとはな」のほうが「オリーブ」のイメージを巧く生かしてるような気がするけど。これこそ、次号がいつ出るのか?!って感じだからなあ。

ちなみに、Ku:nelにしても「つるとはな」にしても、ふろの友ではありません。心置きなく風呂で読めるのは「年齢別雑誌」ですね~。私にとっては「カタログ」そのものだから。

ま、年齢別雑誌の「顔」だった彼女が50代向け雑誌を卒業となると、どっかでいよいよ「60代向け雑誌」を作るってことかな?彼女が30代向け雑誌の創設と同時にカバーモデルになった時に、職場で「1960年代生まれはJJから墓場まで」になると思いますよ~と自論を展開している私ですが、予想通りになるかな?(笑)。
60代雑誌は一体どこから出るのかしら?光文社から?それとも講談社や小学館のような大手出版社から?

そんなことを考えながら湯船に閉じこもるワタクシです。
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by eastwind-335 | 2016-08-02 05:33 | Books | Trackback | Comments(2)

ふふふと笑う

今年の夏、EMでアイスランドと同じぐらい注目を集めた「国」に行きます。

ということで昨日から(え?!)英会話を勉強し始めました。
私が好きな「ラジオ英会話」です。スキットが「ありうる」感じなのと、先生たちがユーモアがあるのです。
一度5月頃「やるなら今!」と5月号のテキストを買ってあったものの、開く前に挫折(おーい!)。旅行が近づいたので、CDをあわてて取り寄せて、久しぶりにウォークマンに落とし、昨日から聞き始めたのです。
(新しいPCにウォークマン用のアプ(アプリって英語じゃ言わないんですねー、が昨日のお勉強の成果・笑)をようやく入れる気になったのが一昨日だったもんで・・・)。
英語ができるようになるためには「単語を暗記しなくちゃいけません」と英語がデキる職場のお姉さんに説得されたので、毎日のフレーズだけはなんとか覚えるようにしています。でも、「ありうる」スキットでも、実際には使うことは全くないので(本当に英語しか話せない人と一緒に仕事をしたことがなく、いつもお互いの「片言外国語」で「心と心の話し合いをする」状況なため)、なかなか上達しません。
5月号から始めたのは「乗り物」がテーマのスキットだらけだったからです。これだったら、私も使うな、と。

復路にはパディントン駅を利用することになりそうなので、『くまのパディントン』シリーズも少しずつ買ってます。
子供時代に読んでいない書名のものです。
松岡享子さんだけでなく、私と同世代の「学者さん」も翻訳に加わることになったんだー、とか新しい発見がありました。いや、もっとびっくりした発見がありましたが、それはいずれ改めて語ります。

子供向けの本ですし、あっという間に読み終えてもいいのでしょうが、1話をゆっくり読んでいます。面白すぎる。
子どもの時から好きな児童文学でしたが、今、新しいシリーズも「面白すぎる」と一人ふふふと笑っています。
翻訳は21世紀になってから、ですが、原作は1970年代のそれ。

イギリスの階級社会の話なども読んでこの作品を読むと、ブラウンさんち、って本当に普通の家族のようですが、アッパーミドルって感じだったのねー、と。

今度こそ、ロンドンか旅先でクリームティーをするぞ!と思ってます。パディントンが初めてブラウンさん一家と出会った時にたべた「べたべた」なケーキは、パディントン駅の近くのホテルで食べられるんだと、この間、立ち読みした本に書いてありました。
行かなくちゃ!行かなくちゃ!
けど、また、あそこを見て、ここを覗いて・・・で時間がない!ってことになっちゃうのかな?

おっとその前に、「国」のこと、勉強しなくちゃ~。日本語のガイドがなくて残念。というか、大変ですよ~(涙)。英語できないから~(汗)。おまけに独特な言語の看板もあるんだとか?英語併記だとは聞いてますが、英語は全然平気じゃないし(とほ)。

というか、ヒースローから目的地までどう行くか、すらまだまだ決めかねている最中です。

出発前までに去年の夏の「北京の思い出」とか2月の「ソウル」とか、記録しておかなくちゃ。
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by eastwind-335 | 2016-07-14 22:26 | Books | Trackback | Comments(0)

あー、原語で読めたなら!

やっと読み終わった『帰ってきたヒトラー』。映画の公開前には、と思いましたが、結局は間に合わなかった。
単行本の時には「文庫本になったら」と思っていたので、文庫本の広告が出たらすぐに買いました。文庫本にしておいてよかった。単行本では各国語翻訳家たちに注が渡されたそうですが、翻訳のサポートのためで、後訳「論文じゃない、小説だ、だから注は翻訳してはいけない」んだったそうです。

しかし、ドイツ本国でも増補版にそのサポートのための注が加えられたとのこと。その量、70ページに及ぶ、と日本語訳者が記している時に、あー、現代のドイツではどういうことにも「注」をつけなくてはいけないのかしら?と気になって仕方なくなりました。
そして、日本語で文庫本化されるときには注が付いた形で出たのですが、およそ200のうちの半分程度なんですって~。これが河出ではなく、みすず出版だったら編集者が意地になってでも全注を付けさせたんだじゃないかな?って(そして文庫本化はなかったでしょう・笑)。

あー、残念!
どんな内容を「外した」のかがすごーく気になります!ほんと。100近くを外すって、どういう基準なのか、知りたかったなあ。
実は読んでいて「えー?これ、注がついたらいいのになー」なんて思うこともありまして(自分で調べなさい、ですかね?)。
モッタイナイ。だって、著者が「注を付けないといけないんだ!」と思って「本国の」増補版に注をつけたわけで(その口上がこれまたすごい)、もっとわかってない私たちは、いくら小説であっても、たとえユーモア小説だったとしても、注のページと本文との間をパタパタ動かしながら読むべき本ではないのか?と。
翻訳の人は「こういうものは外しました」ってどっかで書いておいてくれるといいのになあ。

歴史と文学の間、というのはよく言われることですが、この Er ist wieder daもそんな1冊じゃないか?って。

映画公開に合わせて、主演俳優が来日し、私は公共エイセイ放送の朝のニュースショーでインタビューに答えているところを見ました。映画は小説と語り手が異なるそうです。そして、単純な小説の映画化ではなく、映画ならではの手法(ワタシもニュースショーで見て驚いたのなんのって)を使って作ったもの。原作のどこが削られたのか、映画を早く見たいと思います。

子ども時代に読んだ「世界の名作」は実は抄訳だったものが多い。
日本では「大人になって読む〇〇」という形で、「児童文学」として慣れ親しんだものを再読させるように仕向けてくれる雑誌の特集などもある。
子供向けには不要でも、子供時代にそれが「完全なもの」と思い込んで、「子ども」の本から「ライトノベル」などに行ってしまったら・・・。
あー。翻訳本でしかわたしは海外文学に接することができない分、翻訳で削られている部分がある、となると「うーうーうー、言葉ができない自分が悔しい」と思っちゃう。

・・・じゃ、自分でがんばって本を読み通す努力をしなさい、ですよね(ため息)。

おついでに言えば、海外ドラマも「日本の放送時間」に合わせるためにカットすることが多いですよねー。あれも残念。日本語吹き替え版はたいていカットされてるんだろうな、って思いたくなる(特に韓国ドラマ)。
民放系BSとケーブルテレビレベルでは時間をうまくやりくりできる時間帯があるはずだから(長い時間をとる商品説明のCMだってあるんだし)、どうにかならないものかな~って。
欧米モノでもやっぱり「話の流れがスムーズじゃない」ってことは往々にして見てるモノにわかりますよー、ええ。急にそうなる?!って思うところが。特にミステリーの場合には。
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by eastwind-335 | 2016-07-10 08:45 | Books | Trackback | Comments(0)

ここからあそこまで

私は、幼いときから、思いがけない時にすごく大胆なコトをしちゃう、「取扱注意」シールがあちこちに貼られている人間ですが、案外なところで小心者なのです。

そのことをわかっていたのであろう母方の祖父から、小学生の時にサトウハチローが描いたらしい「勇気をもって人生を正しくつらぬけ」というタイル画をもらいました。それは、結婚するときも持ってきました。いまも、仕事であれやこれやがあった時には、本棚に飾ってあるタイルを見つめながら、おじいちゃんだったらどうしたかな?と思うことがあります。
ところで、就職したてのころ、職場のおやつで、フォーチューンクッキーが回ってきました。そこには英語で「ためらってはいけない」という内容の文章が書いてありました。
それを読んだお姉さんが「東風さんには不要のコトバよね」と笑いながら言っていたのを今も思い出します。

本当の勇気とか、思慮深さって、私に欠けている、人としての美徳。
ちょっとやってみた、ってことが、大ごとになってしまうことがありすぎる。

そんな私も「これはすごすぎる!」というおじいさんを描いたイングランド小説(←どうも、最近「イギリス」でひとまとめに括るのがイヤになってきた)を読みました。
『ハロルド・フライの奇妙な巡礼』
私が図書館で借りた3月末は単行本しかありませんでしたが、5月になって文庫本化されました(講談社)。
つまらない小説ではなかったです。ただ、借りたときは読む時間があると思ったのですが、、先に読み終えなければならない本が出てきたりで、読み終わるまでにのべ6週間が必要でした。
そもそも、ワタクシもいずれ巡礼をしたいと思っている身だからか、読み方からして巡礼的(笑)。足にマメを作り、豆をつぶすような痛みも重ねながら、巡礼のように少しずつ読み始めたところ、一度目の返却期間(2週間)では仕事疲れで帰りの電車で開いたまま乗換駅に到着(つまり居眠りしてた)しちゃって読み終わらず、延期しても、読むつもりで布団に持ってきたのに開く前に翌朝になっちゃった(つまり寝ちゃった)ためにそれでも終わらず。さらに延期して、今度こそ返さなくちゃ、と思う3度目の返却期限日が近づいて来たら、だんだん一度に読むページが増えていった。

乗り物に乗ったほうが早く目的地に着くし、いまや、スマホで目的地を音声入力するだけで「最短の道のり」をナビゲートしてくれる。
そのような時代に、音信不通だった昔の女性同僚が入院しているホスピスに見舞いの手紙を投函しに、家の近くの郵便局へいったおじいさんが、そのままその姿でホスピスまで歩いていこうとすることから始まる物語。
知り合いの牧師先生に勧められて読んだ子供版『天路歴程』を思い出すなあ、とページをめくっていたら、さすがイングランド。さえない(髭もちゃんとそってない、履きつぶしたようなデッキシューズ、所持金はほとんどない)おじいさんは、しばらくすると、本当にお金がなくなり、ほとんど浮浪者のような容姿で、野宿やら野草を食べたり、誰かにおごってもらったり、などなどの状態に。おじいさんは、差し出される手をそのまま握るのではなく、どんなに良いものであっても自分にとって不要なものがある、と頑なに拒むこともある。そんなおじいさんと行きかう人の人生感を通して、おじいさんの「思いつき」があるときは崇高に、あるときは酔狂に思える。

日々を重ね、世捨て人状態でホスピスで最期を待つ元同僚のもとへ向かうおじいさんの話がSNSで全国に知れわたるように。
独りでの巡礼だったのが、そのニュースに便乗しようとする人たちがイエスの後ろをついてあるく弟子たちのように集まりだし、巡礼の意味が世俗的になりそうになります。それに気が付いたおじいさんが自分の意志で再び一人で歩いていくことを決心すると、今度は宗教団体の指導者から離反するときの信徒たちのように自分の正当性を強く打ち出す。また、巡礼を続けるうちに、それまで失っていた自信を少しずつ取り戻しつつあったおじいさん自身が、善意の人々との出会いによって得た物を、あれもこれもと手放し、捨てていき、道を誤りそうになる、という時もあったり。
モノに固執してはいけないけれど、他者からの恵みは与えられた者にかけてるモノがあるという意味が隠されていることに気が付かず、自分の成長した部分を過大視して失ってしまう、ということなんだなあ、。
小説だからそのあたりは「うまく」できてます。
二重三重の入れ子構造の話になっていて、単なる「自分さがしのおじいさんの巡礼」じゃなかった。そういう意味では、人はしょせんフィクションの中で生きているのだ、とか、記憶はその人にとって都合のよいもの、という言葉が思い出されてきました。文章を通して「ああ、やっぱり」と予見できるところもあったし、読感はドラマ化とか映画化しやすいプロットだなあ、がまず頭をよぎりました。ハロルド、妻、息子、女性同僚、21世紀の若い女性たち、隣人、行きかう人々の言動は戦後のイギリス史を重ねている文章だったのだろうと思います。原著をイギリス人が読んだらまた違う感想があるのではないかしら。

そういう意味では、単なる感動の小説じゃないですよー(力説)。老人をナメちゃいけません(笑)。

文中では、道中に知り合った人たちから「天路歴程みたいだな」と感嘆され、その一節を歌詞にした讃美歌が歌われるというシーンをがありました。その讃美歌って日本語の讃美歌だと何番なのかなあ?
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by eastwind-335 | 2016-05-29 18:39 | Books | Trackback | Comments(0)

東風のささやかな毎日のささやかな記録


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