Stop! エイちゃん!
2015年 09月 15日
最近のNissanの広告、「あっちのムトーくん」も登場するなど、秋だからか新しいバージョンが目立ちます。
家人が「むとーくん、棒読みじゃん」と突っ込んでいますが、いやいや、大学出たばっか、に相応しい口調ですし、あれが妙に口慣れた感じだったら私はイヤだな。
さーて!
私はそのNissanのCMを見るたびに「やめて~、あぶないよぉ」とCMだとわかっているに思わずテレビに叫んでしまうこの頃です。
というのも、矢沢の永ちゃんが両手手放しで運転をしているからです。
最近はやりのコンピュータ制御の車のCMなのですが。
永遠のゴールドカードホルダー、子供向けゴーカートですら衝突事故を起こすようなワタクシに言われたくはないでしょうけれど、私はあのコンピュータ制御の車に不安を覚えるのです。
もとは、人の気配を察知して車のほうがブレーキをかける、というCM。これはNissanではなかったと思いましたが、かわいらしい子役を使って「安心ね」と言わせるような内容に、「そんな運転あっていいのか?」と。
前にも書きましたが、私はちょっとした感覚を大切にしたいと思ってます。つまり、これまで当たり前だったのが当たり前ではなくなった、ということを自分で認識したいのです。コンマいくら、って感じの差を自分で理解し、もうこれはやめよう、とか、こういうことができるようになった、とか、こういうことはできる、とか、自分で自分のことをわかっていたいのです。
だから、横断歩道なんかもそうだけど、昔だったら、スピードを上げて渡りきれたのも、いまじゃ、ま、次でいいかな?なんて思う。こんなところで挽かれては困りますからね。
機械があることで、安心できることはある。自力だけで生きることは難しいから。しかし、運転は別。自分が道で躓くのとは違う。人の命も巻き込む。コンピュータ制御は、プログラミングが破られたら、機械でも運転手でも制御できないのは、すでにアメリカやイギリスのメディアで報道すみ。
日本でもそのニュースを引用して紹介していたけれど、あれは、NHK衛星の国際ニュースだけだったのか?地上波は紹介しなかったのか?と思いたくなるような、手ぶら運転、危ないと思っても車が自動的に停まるCMが放送されている。
私は1970年代に子供時代を送ったので、よくわかるけど、未来は明るい、というイメージを2010年代後半から作り出そうって雰囲気を感じる。私が小学生の頃に愛読していた学習百科事典の「科学」(理科、だったかもしれない)の最後には、「未来はこういう生活になります」とまさに今の車メーカーのCMのような雰囲気のイラストが両開きで紹介されていた。今の私があのページを読み直せば、「あの頃、こんなことが予言されていたんだ!」と面白く読むだろうと思う。例えば、テレビ電話は実現化されたし、生活にかかわるイノベーションは必要だろうと思うのだけど。
やっぱり、ニンゲンと機械との間には渡ることができな溝というか、道と言うか、価値観というか、なんといっていいのかわからないけれど、とにかく一線を引く必要があると思う。
これだけ、すべてがプログラムされた中で生きていて、他者の命にもかかわる道具までプログラムまかせ、っていうのは、人としての責任を放棄するようなものだ、と思うのは、永遠のゴールドカードホルダーだからでしょうか?
肢体不自由の人で運転をしたい人にはハードルが低くなるのかな、と思うけれど。でも。健康な人には毒になると思うのは私だけ?
何度も言うけれど、コンピュータ制御は、私たちの意思を越えるのです。あのBBCやABC(CBSだったかも?)の番組を見たら、自分の意思と違う動きを始める車の恐ろしさが分かるはず。
みんな、ナイトライダーごっこがしたいのかもしれませんけれど。でも、まってまって!007だって最後は自力で解決だよ!
永ちゃんが率先してああいうCMに出ちゃったっていうのもスゴくショック。
ンピュータ制御の車のCMにバベルの塔の話を思い出すのは私だけでしょうか?
家人が「むとーくん、棒読みじゃん」と突っ込んでいますが、いやいや、大学出たばっか、に相応しい口調ですし、あれが妙に口慣れた感じだったら私はイヤだな。
さーて!
私はそのNissanのCMを見るたびに「やめて~、あぶないよぉ」とCMだとわかっているに思わずテレビに叫んでしまうこの頃です。
というのも、矢沢の永ちゃんが両手手放しで運転をしているからです。
最近はやりのコンピュータ制御の車のCMなのですが。
永遠のゴールドカードホルダー、子供向けゴーカートですら衝突事故を起こすようなワタクシに言われたくはないでしょうけれど、私はあのコンピュータ制御の車に不安を覚えるのです。
もとは、人の気配を察知して車のほうがブレーキをかける、というCM。これはNissanではなかったと思いましたが、かわいらしい子役を使って「安心ね」と言わせるような内容に、「そんな運転あっていいのか?」と。
前にも書きましたが、私はちょっとした感覚を大切にしたいと思ってます。つまり、これまで当たり前だったのが当たり前ではなくなった、ということを自分で認識したいのです。コンマいくら、って感じの差を自分で理解し、もうこれはやめよう、とか、こういうことができるようになった、とか、こういうことはできる、とか、自分で自分のことをわかっていたいのです。
だから、横断歩道なんかもそうだけど、昔だったら、スピードを上げて渡りきれたのも、いまじゃ、ま、次でいいかな?なんて思う。こんなところで挽かれては困りますからね。
機械があることで、安心できることはある。自力だけで生きることは難しいから。しかし、運転は別。自分が道で躓くのとは違う。人の命も巻き込む。コンピュータ制御は、プログラミングが破られたら、機械でも運転手でも制御できないのは、すでにアメリカやイギリスのメディアで報道すみ。
日本でもそのニュースを引用して紹介していたけれど、あれは、NHK衛星の国際ニュースだけだったのか?地上波は紹介しなかったのか?と思いたくなるような、手ぶら運転、危ないと思っても車が自動的に停まるCMが放送されている。
私は1970年代に子供時代を送ったので、よくわかるけど、未来は明るい、というイメージを2010年代後半から作り出そうって雰囲気を感じる。私が小学生の頃に愛読していた学習百科事典の「科学」(理科、だったかもしれない)の最後には、「未来はこういう生活になります」とまさに今の車メーカーのCMのような雰囲気のイラストが両開きで紹介されていた。今の私があのページを読み直せば、「あの頃、こんなことが予言されていたんだ!」と面白く読むだろうと思う。例えば、テレビ電話は実現化されたし、生活にかかわるイノベーションは必要だろうと思うのだけど。
やっぱり、ニンゲンと機械との間には渡ることができな溝というか、道と言うか、価値観というか、なんといっていいのかわからないけれど、とにかく一線を引く必要があると思う。
これだけ、すべてがプログラムされた中で生きていて、他者の命にもかかわる道具までプログラムまかせ、っていうのは、人としての責任を放棄するようなものだ、と思うのは、永遠のゴールドカードホルダーだからでしょうか?
肢体不自由の人で運転をしたい人にはハードルが低くなるのかな、と思うけれど。でも。健康な人には毒になると思うのは私だけ?
何度も言うけれど、コンピュータ制御は、私たちの意思を越えるのです。あのBBCやABC(CBSだったかも?)の番組を見たら、自分の意思と違う動きを始める車の恐ろしさが分かるはず。
みんな、ナイトライダーごっこがしたいのかもしれませんけれど。でも、まってまって!007だって最後は自力で解決だよ!
永ちゃんが率先してああいうCMに出ちゃったっていうのもスゴくショック。
ンピュータ制御の車のCMにバベルの塔の話を思い出すのは私だけでしょうか?
by eastwind-335
| 2015-09-15 06:39
| 日常
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