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25年前、何をしてた?

毎年1歳ずつ年を重ねるのですから、とうぜん、ある出来事から、10年、20年・・・とさかのぼる年数が増えていくのはわかってます。

ベルリンの壁崩壊から25年を迎えました。私はその時、大学4年生でしたので、自分の当時の年齢を同じだけ重ねて更に余年ということになります。

海辺の街にある実家ではベルリンの壁崩壊、というのは、思い出に残る世界史的出来事。

昨朝まで、その実家に帰っていたワタクシ。
元気だけど、やや慎重に日々をおくる両親と48時間べったりしてきました。

うちの両親は、そういう不自由や制限をどうやって昇華させたり、代替させているのだろう、これからどうしていくのだろうと、会うたびに思います。夫婦二人でなんとかやってるから、と両親はいうけれど、加齢を感じるようになった両親にとって、家族4人が夫婦2人の生活になったんだ、と思うことが増えたのではないか、と思います。

どうも、私や弟の存在は、いまだに両親に「活性化」という化学反応を起こさせるらしい、というのも分かってきました。
賢弟と異なり「お騒がせの素」という名で自分を売り出したいぐらい「ネタ満載」な娘が帰省するとなると、両親も俄然エネルギーチャージして待ち構えておかなくちゃいけないようで・・・(笑)。
そして、チャージができるぐらい、まだまだ元気なのだ、と私も嬉しくなります。
夫婦二人の生活で始まり終わる私たちが加齢を意識するようになったとき、私たちはどうなっているのかしら。なるようになるしかない、と思うけれど。自家放電しっぱなし?

さて、実家に滞在中、まもなくベルリンの壁崩壊から25年、ということで、かつて壁があったところを中心に白い風船をつけ、それを放つというイベントの紹介などニュースでも簡単にではありますが関連報道がありました。
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25年前といえば、私はちょうどその半年前に初めてドイツへ行き、ドイツという国が近い国になりはじめていた時。大学4年生になり、進路がまだ決まってないダメ子さんだった 夢のために頑張っていた(笑)ワタクシ、せめて卒論ぐらいは・・・と思うものの、日々は無為に流れるばかり。必修の卒論から逃げるように週に2度のドイツ語学校の宿題が最優先になるその日その日暮らしの毎日でもありました。
(その日その日暮らしは今もそうですが・・・)

あの11月9日(日本時間では11月10日)、朝起きたらベルリンの壁が崩壊してた!
今だったら朝のHPチェックや公共エイセイ放送でニュースを知ったでしょうが、私は遠距離通学生だったので、あの頃は朝はテレビを見る暇もなく通学する日も結構あって・・・。いま、思えば、日本では第一報が届いたぐらいだったのでしょうか?
そして、その日を一緒に過ごした同級生は時事に関心がある人たちでもなくて。

帰宅したら母が「ドイツが大変よ!歴史は夜に作られるって本当だったのね」と興奮気味に玄関までやってきました。
我が家は「家族の関心は自分の関心」という家。母が「娘はドイツのことをもっと知らなくちゃ!」と私よりも張り切ってメディア他で仕入れたドイツネタを振ってくるのが、ワタクシにはやや「うっとうしく」思われていた頃。なぜならば「え~、知らないの?」と言われるのが、なんとなくひっかかったからです(笑)。
私は「ふーん」と2階の自室へ上がろうとしたのです。
すると母親が「ベルリンの壁がなくなっちゃったのよ!あなた、ドイツ語習いに行ってるんでしょ?ドイツで大変なことになっているのに、キオスクの新聞の見出しとかも気が付かなかったわけ?!ちょっと、2階はダメよ。今日はチャンネル権はあなたのものだから、ちゃんと見なさーい!」と。
「卒論が」と言おうものなら、「あのね、これまでどれだけ卒論を書く時間があったのにどれだけ書けたの?つまり、今3時間ぐらい机に向かったからといって卒論が完成するわけじゃないだから、テレビに集中なさい!こんなこと、人生に何度もないのだから」と。

ほんと、そうだった。

それから4か月後、私は再びドイツを旅行することとなり、日本を出発する時点では行く予定ではなかったベルリンにミュンヘンから急きょ向かった日は偶然にも東ドイツ最初で最後の民主的選挙が行われる週末を前にした金曜でした!
そんなことを知らず、偶然、予定が空いたので、「そうだ、チェックポイントチャーリーから東ベルリンへ行ってみよう!ドイツツーリストカードでタダで行けるんだし!」と、能天気に予定変更をしたワタクシ。
そんな能天気のベルリン滞在記はまたまたネタ満載のため「以下省略」(笑)。

とにもかくにも、1989年4月には「鉄のカーテンの東側の人たちは西へは簡単に行けない」と思っていたのが、4か月後の夏のピクニック大作戦で、国境の鉄格子が切り取られる。とてもヨーロッパ的な人海作戦だなあ、と感動しながら衛星放送での報道を見てましたよ!。「ま、それにしてもベルリンの壁は存在し続ける」と思ったのに数か月後に「寝てる間に壁は開いて、しかもそれを私は半日知らないままだった!」という状態。そして、その時はドイツへ行くつもりはなかったのですが、4か月後に「卒業旅行」と銘打って10日間の一人旅を突然敢行。「そうだ、チェックポイントチャーリーへ行ってみよう。」と次、いつドイツへ来られるかわからないし!とベルリンへ。
東西ドイツ国民は自由に往来ができましたが、それ以外の国の人たちは依然として東ベルリンに行くにはチェックポイントチャーリーを形式的に通る必要があったのでした。

その勘はあたりましたよ。ええ。次のベルリン滞在は23年後だった。

それどころか、ベルリンに行って半年たったら「東ドイツがなくなった!」「チェックポイントチャーリーも用無しになった!」という大ネタが待ち構えてました。行っておいて良かった!

あの時、ベルリンに行ったことを現地から伝えた時には、両親、特に父から国際電話でエライ大目玉をくらうことになったのですが(この話は、またいずれ)、25年経った今、「キミは、偶然の一つ一つが面白いんだよね」と言われることに。

でも、弟もそうだし、両親だって、旅先で、日常で起きた「偶然」が、そのあとの日々に意外な形で関係しているわけで。
両親と3人でしみじみ語ったのは、そういう偶然を大事にできることが大切。
他人の偶然を自分のことのように感じることができることが大切。

そんな日々の話を含めて、25年前と今の話で盛り上がった私と両親。
今春、ベルリンでかなりゆっくりと休暇をすごした私。
まだまだ私が見たベルリンは、観光地のベルリン+αだったな、と、帰国して半年以上が過ぎても思います。
また、ベルリンにも行きたいな!
しかし、父の「ドルトムントってどこにあるんだっけ?」というセリフに「そうだ!ルール地方に行こう!」っていうのもありかしら?なんて思うワタクシでもありました。

あの日、私はまだまだ若く、人生にこれ以上のことがあるのだろうか、と思っていた。けれど、生まれてからその時までの年数以上を再び重ね、振り返ってみれば、過去に起きたことが軽い扱いになることはないけれど、これ以上のこと、というレベルのものはあれから何度も発生している。
日々、世界規模でほぼ瞬時に報道される時代。何もかもが意図をもつからこそ報道されるようになっているのでは?むしろどこかでは報道されても日本では取り上げられないことに重要なことがある、ということを見逃しているのではないか?と思わなくもなく。

そして、「そうか、25年ってずいぶんと長い気がするけれど、本当にあっという間なんだな」と思わなくもなく。
壁の崩壊50年というところまで元気に過ごしたいものです。その時は、迷いなくベルリンにでかけるつもり!
by eastwind-335 | 2014-11-10 05:40 | 日常 | Trackback | Comments(0)

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