人気ブログランキング | 話題のタグを見る

シーズンを前に

この数か月、書評などでも取り上げられている、ドイツ小説『サッカー審判員 フェルティヒ氏の嘆き』が積読状態寸前になっていたのを掘り起こしました。

最近、通勤時間に読んでおきたいものがあったので、ついつい後回しになってしまっていたのでした。

この本は「メルちゃんもお気に入り」というのが枕詞になっているようです。サッカー好きな首相として知られるようになったメルちゃんですが、就任当初はねえ・・・(遠い目)。どんどん、父ちゃん一家を通じてサッカーを知っていった、という感じが遠い極東への報道からは思えます。ということでは、私はアンジーおばちゃん(もとい、メルケル大統領)には親近感を覚えるのです。彼女もまた、国政というピッチのなかでは、選手であり、監督であり、そして時には審判でもあり、審判される側でもあり、ということでこの小説には思うところがあるのかなあ。

そして、東ドイツ出身の作家、とか、これまでサッカー小説をほかにも出している、という著者紹介のなかで、私をググイとひっぱったのが、彼の著作リスト。『太陽通り』Sonnenalleeの著者なのか!!!

Sonnenalleeとはベルリンに本当にある通りの名前。通り4キロメートルのうち、たった60メートルだけが東ベルリンという、その60メートルの中での青春物語。すごい設定だと思った。テレビは西側のがばっちり映るだけに、東側のオイコラ政治にとっても反発を感じる子供たちと、だからこそなのか、東側の体制に染まることで目の前の誘惑にのみこまれまいとする、ある種の禁欲を醸し出す親との会話など。これが、「無知の谷間」といわれた星ドイツ情報のキャッチがかなり難しかったドレスデンあたりだったらどういう青春だったんだろう、と思わなくもない。
映画の中の「アンタがカラーフィルムを忘れたから」という歌は、のちにDie Prinzenがカバーして、私のウォークマンにも入っています。21世紀、いよいよCanonまでがミラーレスデジタル一眼レフを出すという、いまとなっては、「カラーフィルムぅ?」なわけですが、一瞬一瞬、あとになって現像する(振り返る)までわからない、色の調整も撮り直しのきかないというあの高揚感をいまの若い人はどこで感じるのだろう。

その作家の作品。訳者が異なるだけでなく、Sonnenalleeは青少年(?)小説だけれど、今度のはふつうの小説だから文体も違う様子。と最初の1ページ目(本としては3ページ)を読み終わりめくってから、終わるまで、本を閉じたら負けなんだな、みたいな気持ちになって読み進めました。

改行なし、改ページなし。
サッカー小説という帯買い(さらにいえば、ドイツ文学)な私でしたが、視覚的にまずやられました。
見開き改行なし。章立てなし。たぶん原著もそうなんでしょうね。
サッカーでいったら、ハーフタイムなしの延長戦を見ている感じ。つまり、目が離せず、本を閉じることは許されず、という感じ。

そして、話はサッカーから・・・。何度も、一見関係がありそうで、でもサッカーをそう例えるものなのかな?と思ったりしていたことが、最後の最後にそこに収まり、最初の数ページの違和感も納得がいく(小さなことなんだけど)。

電子媒体では楽しめないな、これ。本って結局はこういう楽しみも含めてのものだと思う。ipadに続けといわんばかりに、電子書籍リーダーが続々でてくるし、職場でも本を買っては裁断してPDFファイル化して「いやあ、すっきり部屋が片付いた」とか「無駄がない」という人が続出。新刊本を裁断するって、こんなに心が痛むことってない。なのに、週があけると、週末にあの本を買った、この本を買った、さっそくあれを切った、これも切ったという「永遠のお嬢」がいて(わざわざ私のところまで言いに来なくてよい! 怒)、しかも職場の裁断機だときれいに落とせるとか言う。そういう人って基準がはっきりしてるから、自分ルールに3回抵触すると、その人を全否定、みたいなこともしちゃうんだなあ。他者を全否定することで自らはブレないという生き方をしている人を目の当たりにしたこのごろ。
ブレまくりの私は、この人によって全否定された人たちをチューターとして引き受けさせられていることが多くて、ホントまいっちゃう。

閑話休題。

そうそう、私がガツンとやられた部分を・・・。
いや、あまりにあちこちの文章にガツンゴツンとやられているのですが・・・。

じつはサッカーはとっくに真面目になってしまっている。サッカーでは、誰も「あとには何も残らない」とは思っていない。いろんな業界が関わっているんだ。何百万人もの人生がかかっている。何もわかっていないやつだけが「サッカーなんて遊びさ」などと言うんだ。サッカーは「遊び」などというものとは、もうまったく関係ない。遊びとしてのサッカーは根本的に否定されたんだ。サッカーにもっとも深く関わっている人間たちによってな。


この作品、2007年にドイツでは出版されたそうです。つまり、WM06を指しているのかな、と。ドイツのサッカーは確かにこの時に変わったような。開催国だからとおもっていたけれど、そうか、業界か・・・。いまさらですけれどね。

新シーズン、ブンデスリーガでは、機械ゴール判定は導入しないそうです。よかったよかった。
私は誤審が「わざと」つまり八百長がらみで、というのは絶対に反対だけれど、実をいうと、ゴールの際の誤審(WM10のドイツーイングランド、EM12のイングランドーウクライナ)って、なんか、逆に「試合の運不運」を覚えてしまったのでした。
いや、応援しているチームにとっては「そんな?!」ということにもなっちゃうんだし、選手からしたらそりゃもうあなた、なわけでしょうけれど。怒りの沸点、驚きの頂点含めて感情の起伏は人間による審判だから生み出すのであって、あれが機械で、になったらねえ・・・。サッカーというのは「あきらめるスポーツ」になってしまいそう。公正とか公平というのは、世の中に絶対的には存在していない。時々、質すようにしたことが、結果としてある一方からの視点で「公正」「公平」に思えるんじゃないのかなって。

本の感想からはどんどん遠のいていっちゃいました。彼の『ピッチサイドの男』も読まなくちゃ。
by eastwind-335 | 2012-07-25 21:05 | Books | Trackback | Comments(0)

東風のささやかな毎日のささやかな記録


by eastwind-335